<p class="ql-block"><span style="color: rgb(22, 126, 251);">希望大家看后尽可能留言,老师的女儿華江也下载了美篇,可以看到大家的留言</span></p><p class="ql-block"><span style="color: rgb(22, 126, 251);">我计划把大家的留言整理出来,作为老师的92岁的生日礼物。</span></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">写在前面</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">今年四月中旬,拜访田中四郎老师的时候,有幸得到老师的赠书。老师在2017年5月回顾自己的大半生,写了「生きた時代忘れ得ぬ人」一书。其中「体验中国断章」的章节,描述了几次到中国的经历,在征得老师同意后,分享给大家。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">特别值得说明的是,老师在几年前因为摔倒颈骨骨折,有很长一段时间只能平卧床,包括脖子在内的身体以下都不能动,当时生命垂危;被医生断言即便能活过来,以后只能像霍金那样,借助机器用眼睛选择来写字。但田中老师说:一生作为文人,断不可以不能写字。所以从能够康复活动开始,积极锻炼。当时老师是在医院里、在女儿的帮助下,将以前的作品编辑而成这本书。</p><p class="ql-block">现在老师的右手两个手指可以活动,老师就是用这两个手指给我签名的。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">现今老师已经91岁了,6月11日即将迎来92岁生日。虽然还是得坐轮椅行动不便,但是老师思路非常清晰、也健谈,日常也会看书、看新闻。旺盛的生命力让我叹为观止。应该是过去艰难岁月里磨练出来的坚韧超强意志,生命不息、奋斗不止!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">再次感谢華江提供照片,让大家感受老师的风貌!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><h1><b style="font-size: 22px;">生きた時代忘れ得ぬ人</b></h1><h1><b style="font-size: 20px;">ー体験中国断章</b></h1><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">私は現在(二〇〇九年)日中友好協会八王子支部の会員である。私が初めて中国の大地を踏んだのは一九六五年、三十二歳の時だから四十五年目になる。その間、十数回訪中したが、目的から見ると三つの分野に分けられる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">1、日本語教師として</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">世田谷区の中学校で国語の教師をしていた一九六四年八月末、夏休み最後の日に思いもよらぬ話がまいこんだ。「日本語教師として家族ぐるみで中国へ渡ってくれないか。急いでいるので至急返事がほしい」というのである。生涯日本で教師をするつもりでいたから、まさに”寝耳に水”だった。「ええっ」と、しばし沈黙。「私はいいが妻こともいるので正式な返事は明日にしてくれ」ということで家に帰った。その晩、妻に話したら、座っていた椅子からずり落ちて尻餅をついた。腰が抜けたらしい。何時間話し合ったか記憶にないが「行こう」という結論になり、翌日返事をしたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">当時、日本と中国はまだ国交が回復しておらず、ごく限られて貿易はあったようだが、中国への旅行など全くない時代で、まして私のような庶民は外国へ旅行することなど考えたこともなかった。また政治的には反共・反中国が強く、出国許可がおりるかどうかも危ぶまれた。そのこともあって表向きの目的は「中国文学の研究」で通すことになった。後にわかったことだが、中国では周恩来首相が将来の中日国交回復に備えて通訳や教師を養成する日本語教育の推進を指示、六四年の九月にには大連日語専門学校(後の大連外国語大学)が開校し、同月に詩人の土井大助さんらが赴任していた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">九月初めから準備にはいった。担任クラスの生徒には申し訳ないが、十二月末で退職し六五年のの年初めに出発することとし、二人の両親説得(父には、「お前はいつも決めてから相談に来る」といわれた)、まだ二年足らずしか住んでいない家の借金返済、職場活動を引き継ぐ同士の獲得、テープレコーダーからおむつまで荷物の準備・・・いつ帰れるか不明のたびゆえに手探りの毎日だった。心配は生後半年で肺炎を患いやっと歩きはじめた一才の娘のことだった。パスポートを作るのも初めだったが、将来、娘だけ帰国させることもあり得ると思い、サインは私が代筆して娘のパスポートも作った。</p><p class="ql-block"><br></p> 日中文化交流協会を通じての手続きが予定より若干遅れたが、二月のはじめ、エールフランス機に乗り香港経由で中国へ入国することになった。成田空港はまだなかったので羽田からの出発だったが、身内のほか友人や教えこなど多数が見送りに来てくれた。タラップを上がり、赤ん坊をおんぶした妻が「お母さんはどこ?」と夢中になって送迎デッキを探している。彼女が両親の元を離れるのは生まれて初めてで、これが見納めになるかも、と思ったのかもしれない。彼女の母が娘と初孫の旅たちをどんな思いで見送ったかは知るよしもなかった。<br><br><br>今にして思えば、ずいぶん無茶な日程で出発の日を迎えたものだが、当時は私生活より社会的な大義を優先して行動を決定するのが普通だった。共産党員だったからかもしれない。「新中国がそれを求めており、日中友好の将来に役立つなら、十年くらいは中国で日本語教師を続けよう、いずれ国交も回復するだろう」と胸ふくらむ思いだった。<br><br><br>香港へ着くと、関西弁の中国人通訳が空港で出迎えてくれた。何より驚いたのは、真冬の東京を飛び立って数時間後、そこには花が咲き乱れ人々半袖姿で歩いており、真夏のような暑さだった。一夜明けて朝食、まだ通訳が来ていない、メニューを見てもわからないので適当に三つほど指さすとパンばかり三種類も運ばれてきた。<br><br>香港の街から国境まで列車で行くのだが、通訳は同行せず、私たち三人のほか日本人はいない。その上「列車内にはすりがうようよいるから荷物から手を放すあ」と言われており、この間がもっとも不安定なひとときだった。イギリス兵のチェックを受けゲートを越え、長い橋のようなところを歩いて中国側の国境へたどり着いた。その時はじめて緊張がほぐれホッと大きな息をした。そこには笑顔の通訳さんが手を広げて待っていた。<div><br></div> <p class="ql-block">列車で広州へ到着、一泊して目が覚めると子供のこえが聞こえる。「米国必敗!越南必勝!イーアーイ」小学生たちがデモ行進をしている。(时隔多年,上个月见到老师的时候,这八个字老师的中文发音非常地道!-Anna)その前日(2月7日)米空軍がはじめて北ベトナムを爆撃したのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">広州からは小さな飛行機で北京へ向かい、ついたのは凍てつく深夜だったが、さっそく空港で歓迎宴が開かれた。何度も何度も「乾杯!」の声が上げったことだけを覚えている。北京では故宮見学に案内された。全部見るには数日かかるところを半日ほどで回ったのだが、昼間でも零下十度、疲れて眠った娘を抱いて歩いたのが良くなかった。帰ると熱を出してしまった。目的地の大連までは特急列車で二十四時間、途中の駅で看護婦が乗り込んで付き添ってくれ、終点の大連駅では医師が診察してから列車を降りたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">(中国での生活や仕事については、帰国前すべての記録を処分したので、まだらな記憶の中から思いつくままその一端を紹介したい。)</p><p class="ql-block"><br></p> <h1><b style="font-size: 18px;">学生</b></h1><p class="ql-block"><span style="font-size: 20px;"></span></p> <p class="ql-block">高校を卒業した十八歳から二十歳前後の学生たちは農村出身者が多く、男女とも同じ青い工人服でスカート姿はない。(世界平和のため、中日人民の友好のため日本語を勉強します」と目的は大きく、実に熱心で朝の五時・六時から校庭で勉強している。私は東京出身で訛りが少ないということで、声の教科書をテープに吹き込んだのだが、それを聞きながら大声で練習するのである。こちらは中国語が全くわからないし、「全て日本語で教える」という教育方針だったから、はじめは手まね足まねで指差ししながら教えたのだが、進歩は早かった。教室には日本人教師のほか中国人教師がいて学生の理解度をチェックし、私が一時間授業すると次の自習時間にフォローするのである。一学年が終わる頃には簡単な会話ができるようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学年末には成績評価をするのだが、日本と違うのは優劣の差別をするのでなく、学力の到達度を評価し合格・不合格を決めるのが中心で、みんなの模範になる優れた学生には「秀」をつける。不合格の学生とは話し合い、将来を考え優遇措置として留年を認めるのである。当時学生は全寮制で収入の低い家庭の子弟は学費無料だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">日中の歴史や生活習慣への誤解からトンチンカンな問答のあった。「私の父は農民で・・」と話と、「解放されていない日本の農民が靴を履いていたり、文字が読み書きできるはずがない」というのである。彼等の親は解放前、小学校に行ったこともなく、塗炭の苦しみをなめてきたのである。その中国を解放に導いてくれた。というので毛沢東に対し「崇拝」の気持ちを持つのである。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;">阿姨(おばさん・保母さん)</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">最右侧是阿姨</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>旅行</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">開校したばかりの学校は一期生だけで五〇〇人、日本語教師が足りないので妻もすぐ教師に採用された。子どもの世話をするため各家庭へ保母さん(私たちは「アイさん」と呼んだ)が配属された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">我が家のアイさんは王銀花という二十七歳の女性で、二人の子どもの母親だった。自分の子どもは全寮制の保育園に入れ、毎日通いで朝から夕方まで娘の世話をしてくれた。後述する「文革」の異常の中でも大連駅を離れる最後の日まで実に誠実に世話をしてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その阿さんが一度だけ私たちの意見につよく反対したことがある。六五年十二月、次女が生まれたのだが、名前を中国にちなんで「華子」にしたいというと、「不好!不行!」駄目だというのである。中国では「花子・華子」とは乞食のことだというのだ。そこで「華江」と名づけることになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">三十年後の九四年、開校三〇周年の記念式典に招待されて訪中した際、探し当てて食事に招待し、娘・華江の中国文の手紙を添えてはじめてお礼を述べた。寡婦となり息子と生活しているとのことだったが、夫の死が文革に関係があったかどうかは聞かないことにした。六十歳近い彼女は歳よりも老けて見えた。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">六五年八月、「夏体みを利用して旅行しましょう」というので、二・三日かと思いきや北京・西安をへて延安まで何と一ヵ月。西安までは列車だったが、途中気温が四〇度を超え窓を開けると熱風が入ってきた。竜門石窟の巨大な石仏を見たり、楊貴妃も入ったという華清池の温泉につかったり・・やがて洛陽をへて西安に到着。そこから延安までは「空の便もあるが、国共合作の時は歩いた兵隊もいたくらいで、すぐ近くだ」というので陸路で行くことにした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">バスに乗って砂族の中を走り、ヤオトン(横穴住居)で昼寝をしたり、大筏でバスごと川を渡ったり、無人の西瓜畑で料金箱に代金を入れてその場でかぶりついたり、丸二日かかって延安に着いた時には、浦島ではないがみな髪の毛が砂挨で真っ白になっていた。その時、俄かに空が真っ暗になり大粒の雹が降ってきた。急激に気温が下がり半ズボン姿ではたまらず長ズボンを買いに出たが見つからなかった。その晩は長征の生き残りという老兵から話を聞いたが湖南なまりがつよく、二重通訳だった。 毛沢東や朱徳、周恩来などが生活した遺跡なども見てまわった。この時の旅行で中国の広大な大地を体感した。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;">文化大革命</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"></b></p> <p class="ql-block">六六年の二・三月、ベトナム支援の国際統一戦線をめぐって日中両共産党の会談が開かれた際共同文書が発表されなかったので「変だな?」と思った。実は北京では周恩来を団長とする中国側と「共同コミュニケ」の合意にこぎつけたが、帰途上海で毛沢東を表敬訪問した際、毛沢東が「北京は軟弱だ」と一方的に文書を破棄したのだ。その同じ日、毛沢東は紅衛兵に「文化大革命」の名で権力闘争を指示したのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月に入りメーデーが過ぎたころから学校内もあわただしくなってきた。一日休講にして全学生が会議を開くという。そのうち一週間、一ヵ月と授業のない日が続くようになった。何が起こっているのか不審に思っていると、六月初め「人民日報」に「プロレタリア文化大革命」という特大文字がおどった。以来学生たちは紅衛兵の腕章をつけ血走った目で右往左往するようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">街では大字報が張り出され、三角帽を被せられた幹部か紅衛兵たちに引き回されている。我が家にも連日、紅衛兵になった教え子たちが「文革」に同調するよう説得しくるようになった。それから数カ月に体験したことを出述する紙数はないが、一つだけ書き留めておきたい。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">八月には北京の天安門広場に百万の紅衛兵が集まり毛沢東が接見したとのニュースが流れたが、九月に入ると大連の日本人教師の代表に北京の国慶節に参加するよう招待状がきた。私たち夫婦もその代表団に入ることになった。大連の日本人教師は自主的な態度を堅持することで一致していたが、北京では留学生など「文革」を絶賛し、私たちを敵視している日本人も少なくなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">国慶節の前夜、人民大会堂三階の大宴会場で周恩来主催の祝賀会が開かれた。私たちを除くすべての参加者が赤い『毛沢東語録』を振りかざし異様な雰囲気である。</p><p class="ql-block">私たちは分散して未席のテーブルに着席したのだが、そこへ西園寺公ーと若いKが現れ「毛沢東思想に導かれた日本革命のために乾杯しよう!」といった。即座に「そんな乾杯は受けられない」と反論し席を立たなかった。ニ十人を超える大きな丸テーブルの回りから私たちに回かって一斉に非難の怒号が浴びせられた。宿舎に帰る、バスに乗るとすでに乗り込んでいた日本人紅衛兵が怒りながらつかみかかってきた。通訳は外にいたので「こんな命の保障されないバスには乗れない」と抗議し、別のバスを仕立てさせて宿に帰ったのだった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;">帰国</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"></b></p> <p class="ql-block">国慶節前後に宿舎で北京駐在の赤旗記者・紺野純一さんに会った。紺野さんは「文革」礼賛派の留学生から暴行を受け、顔がはれあがっていた。集団発狂ともいうべき異常な状態は、大連だけではなく、中国全土が大混乱に陥っていることはもはや明らかだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連の日本人教師とその家族は「中国の国内問題に内政干渉と取られるような立ち入った批判・論争はしないが、不当な強要・干渉には毅然と抗議する」という意思統一をした。すでに日本の共産党はソ連共産党の干渉に屈せず自主独立の立場を確立していたが、それは中国に対しても同じであり、いま私たち一人一人が自主的な態度を堅持することが重要な意味を持つことを肌身で感じた。悲壮感はなかったが、命を懸けてでもこの態度を守らねば、という思いだった。巷には「手足を縛られた体が流れ着いた」などの大字報が張り出され、残酷としか言いようのない光景にも出くわした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">将来の日中友好を願い、新中国の建設を援助する目的で職をなげうって訪中したのだが、もはや私たちのやるべきことはなくなった。土井さん一家を先頭にいくつかのグループに分かれて日本へ帰国することにした。ニ家族、三家族と大連駅を発ち、南山の日本人村は閑散としてきた。最後のグループ私たち三家族が大連を後にしたのは十二月初めの寒い朝だった。長女は三歳半、大連で生まれた決女は一歳の誕生日を目前にしていた。長女は阿嬢さんに中国語で別れを告げていた。帰りもまたおむつ袋をさげての旅であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学生たちには「今議論することはやめよう。何が正しかったかは歴史がきっと証明する、一〇年後に再会できたら話し合おう」といって別れた。一〇年では解決しなかったが、三〇数年後、思わぬところで彼等と再会することになる。が、その時のことは②で述べることにしよう。 帰国については、私の足が悪い(春の運動会でアキレス腱を痛めたが完治せず数ヵ月松葉杖をついていた)のを理由に中国にとどまって治療するよう執拗に口説かれたが帰国の意思は変わらなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">深圳から香港へぬける国境の検問所を通るのだった。パスポートは三人だけ。英兵は二人の娘を見比べて首をかしげる。一年半前の長女の写真にそっくりだった。そのため長女を中国から連れと疑ったらしい。片言の英語と手まねで何とか通ホッと大きな息をついた。香港のホテルで一歳のを迎えた次女・華江は、その日はじめて五、六歩ち歩きをしたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この年の夏、珍しく父から便りがあり「俺にもことがあっても帰国するな。決心して出立した以を貫け」と。体の不調を感じていたのかもしれな国が早まったことで、一年後ガンで他界した父の看取ることができた。奇貨というべきか。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">回国后田中老师一家五口</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;">後日談</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"></b></p> <p class="ql-block">その後「文革」はますますしくなり、翌年</p><p class="ql-block">に砂間一良さん(党代表として北京駐在)と紺野記者が帰国する際には北京空港で暴行を受け、紺野さんは肋骨骨折の大けがをした。大連日専でも教師や勤務員への理不尽な糾弾が続き、屈辱に耐えかねて次々自殺者が出たという。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学校の創立と運営に献身的に努力してきた孫夫亭副校長は校舎の三階から飛び降り自殺を図った。重傷を負ったが奇跡的に助かった。その孫氏が九八年の夏に開かれた一期生二期生同窓会の日本人元教師歓迎会の宴席で突然立ち上がって話しはじめた。</p><p class="ql-block">「文革は間違っていた。あの頃は自由がなかったから誰も止められなかった。多くの人が死に、傷つき、誇りも傷つけられた。日本の友人たちには大変申し訳ないことをした。私も文革以来苦しい年月をくぐり抜けてきたが、日本の友人たちの毅然とした姿がいつも励みになっていた…・」と。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">今にして思えば、あのとき節を曲げず自主的な立場を貫いたことは、自らの人生にとっても、その後の日中関係にとっても本当によかった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">2、 「悪魔の飽食」中国公演</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">私が定年退職した直後の九三年春、北野市民センターで池辺普一郎・森村誠一・土井大助の県談と合唱組曲「悪魔の飽食」を演奏するイベントが開かれた。これを聴いたあと、私は「絹の道合唱団」に入った。その年の秋、池袋の芸術劇場で「悪魔の飽食」コンサートが開かれたが、その後全国縦断コンサートが始まり、私も京都、沖縄、仙台など数カ所のコンサートに参加した。いつも作曲者の池辺さんが直接に指揮をした。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">第一排中间白色衣服后面的,是田中老师。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">九八年の夏には初めての海外公演となる中国での公演が企画され、私も参加した。池辺さんが団長で『悪魔の飽食』の著者・森村さんも同行した。コンサートは七三一部隊の置かれた平房に近いハルビンと瀋陽の二都市で開かれた。過密スケジュールだったが、濃密な時を刻んだ数日間は感概深い体験だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">北京を経てハルビンに着いた一行二四〇名は、まず、郊外にある七三一部隊の跡を森村さんと現地の罪証陳列館長の案内で見学した。広大な跡地の大半は撤退時の日本軍の爆破で破壊されていたが、雑草生い茂るなかに、窓のない凍傷実験室やペストねずみを飼っていた飼育室などがあり、プレート表示して保存されていた。巨大な壁と煙突だけが残るボイラー室跡は不気味であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">跡地で見たもの以上に胸をえぐられたのは、二十代夫を七三一部隊に殺され、自らも拷問を受けた敬蘭越さんの生々しい告発であった。決して大昔の話ではない。私の生まれた前後に同じ日本人がかくも残虐な行為を組織的、計画的に行ったとは!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夜のコンサート本番では、激情に流されて歌ってはならないと自戒しつつも必死で歌った。合唱が終わった後、舞台に上がった敬蘭芝さんが「恨みは消えないがこれからは中日友好のために努力したい」とあいさつし、最後に「謝謝大家!(みなさんありがとう)」と結んだとき、涙があふれてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">瀋陽に移動して最初に見たものは平頂山の遺骨館だった。私の生まれた年、一九三二年の名月の晩に村民三千人が日本軍の命令で一カ所に集められ、機関銃で全員虐殺された現場である。当時約八百体が発掘され、累々と横たわる白骨の上に屋根がかけられていた。幼児を庇うように小さな骨を抱いた母親らしき自骨などそのままの形である。ここでも、血の海で奇跡的に生きのびた莫徳勝さんの話を聞いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">瀋陽音楽院ホールでのコンサートが終わった時、三十数年前の教え子・馬興国(当時遼寧大学長)ら約十名が花束を持って舞台へ駆け寄ってきたのには驚いた。実はこの時の訪中には密かに再会への期待があった。私は六十年代の半ば、大連で日本語を教えていたが、一年半後、突如「文化大革命」なるものが始まり、毛沢東礼賛や日本の運動への干渉を拒否して思い半ばで帰国したことは前の項①で書いた。その時は深い信頼で結ばれていた学生たちとの間も無残に引き裂かれ、いつの日か再会を・・と願っていたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">日中両共産党の関係が正常化した直後のこの時の訪中では、瀋陽でも、連絡のなかった北京でも、元学生たちの代表がホテルで待ち受けていた。別に用意された宴席には、すでに五十代になった教え子たち多数が集まっており、言葉では尽くせない三十二年ぶりの万感こもる握手を交わし、こもごも語り合うことができたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">二〇〇五年の夏、第二回訪中公演(南京・北京の二都市)が企画された。私はガンの手術三カ月後で、体調もさることながら、練習も不十分。しかし、合唱団長などから強く勧められ南京はパスして北京公演だけ参加することにした。この時も北京在住の教え子たちがレストランを借り切って「熱烈歓迎田中老師…」の横断幕を張り大歓迎してくれた。四十年経っても彼等の親愛の情は文字どおり「熱烈」で圧倒されんばかりだった。国を隔てても人間と人間のきづなの確かさを感じた旅となった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">3. 雲南山村撮影の旅</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">私は退職して年金生活に入った年の春から、JRP付属の現代写真研究所に通いはじめた。当初はその年の新年から担当した「都議会だより」にきれいな写真を載せたいという単純な動機だった。が…・九七年の秋、中国の四川省・雲南省を訪ねたのは、カメラマンで俳人の小松健一さんが、岩波新書『三国志の風景』出版を記念して企画した撮影旅行に誘われて参加したのだった。九月末の成都はまだ雨季で、杜甫草堂は秋霖で煙るように静まり返っていた。東京の喧騒をぬけ出して緑深い草堂の庭を歩いていると、千年の歴史の流れを体感する思いだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">成都から雲南省の省都・昆明まで成昆鉄道の特急に乗った。地図では隣町でも広い大陸のこと、切り立った渓谷を縫って走ること二十四時間。山また山を越えた奥地にも耕した土地があり、トウモロコシが実り、民族によって様式の異なる屋根を連ねた集落が点在していた。いつの時代に耕され、幾世代人々が生きてきたのだろうか。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">昆明から大理へ、さらに奥地の麗江へは小型のバスで移動した。高速路とはいえ雨季末期であちこちに土砂崩れがあり、反対車線を走ったり、トラックが道の真ん中で立ち往生すると、故障が直るまでのんびり待ったりという旅であった。高速路の側を牛なども歩いていた。昆明を出た時は稲刈りの最中、大理あたりは黄金の穂波、麗江の稲は青かった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">雲南には少数民族の自治区が多い。白族、納西族、チベット族などそれぞれの民族にはそれぞれの服装があり、文化があり印象深かったが、とくに心に残ったのは麗江からさらに奥地へ入った玉龍雪山の麓の雪松村で会ったナシ族の人々である。現地案内人でさえ、車で入ることをためらった奥地で、観光客など来る由もない標高三千メートルの地にその村はあった。日本でいえば北アルプス穂高連峰の頂上あたりの標高だが、南のせいかこの地ではトウモロコシが実り、牧草も育つのだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">村の入口で別れ、各自思い思いに二時間ほど村内で撮影した。私が最初に訪ねた農家は日干し煉瓦で作られた門を入ると、厩や農具の納屋があり、馬と並んで鶏が餌をついばんでいた。母屋はその奥にあった。「ニーハオ」と片言で声をかけ、手まねで撮影の了解をとると、手招きして招じ入れ、庭続きの畑から色づいたリンゴをもいできて食べろと勧め、手製の小さな木椅子まで出してくれる。何の前ぶれもなく突然庭先に現れた言葉も通じない外国人を、少しはにかみながらもにこやかに歓迎してくれる。今日の日本にこんな村があるだろうか? 私が生まれ育った半世紀前の飛騨の山村には、こんな人々の心があったように思う。東京から数千キロ離れた大陸の奥地で「心のふるさと」にたどり着いた思いでシャッターを押し続けたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕日が沈むころ、牛や馬や人々が三々五々野良から帰ってきた。この村に自動車や電気製品は見当たらず、日本的常識では決して豊かとはいえないが、人間をじ、愛し合って生きる平和で心豊かな生活があるように思われた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">以来、雲南の山村に魅せられ、〇三年までに八回雲南各地を歩き、少数民族の人々と交流し撮影を続けることになった。その間、雪松村と同様しばしば心暖まる体験をしたが、すでに紙数が尽きたので割愛する。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">先生の写真作品</p> <p class="ql-block">詐欺や殺人、労働者使い捨てのニュースが続く今日の日本は、単なる経済危機ではない。社会の中で信じ合い支え合ってこそ生きられる人間、その人間本来の心の失につながる人間そのものの危機に直面しているのではないだろうか。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">完</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">2017年5月</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">2014年田中夫妇于高尾山留影</p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">文:田中四郎「生きた時代忘れ得ぬ人」の「体験中国断章」部分</p><p class="ql-block">写真: 田中先生の娘 華江さん</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p>