<p class="ql-block">写在前面</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">我是在「凡夫のはらわた(鈴木ひろし遺稿集)」中,看到铃木老师这篇文章,连续发表在老师成立的福島「いわき文学」刊物上。1973年的第一部,到1984年的第五部,还有1999年的最后一章,跨越了20多年。</p><p class="ql-block">铃木老师于2001年9月因病去世,享年64岁。他的遗稿整理委员会将老师的作品整理出版。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">这篇文章比较完整地以铃木老师的视点,记录了日本人教师在中国的经历,相信大家都愿意了解当年老师的心境和在中国的遭遇,特意在这里分享给大家。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">四月29日始まり</p><p class="ql-block"><br></p> <h1><b style="font-size: 22px;">混乱の悲</b></h1><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 22px;">鈴木博</b></p> 目录 <p class="ql-block">第一部 中国へ第一歩</p><p class="ql-block">第二部 中国の人々</p><p class="ql-block">第三部 十五歳の新中国</p><p class="ql-block">第四部 社会主義中国 その光と影</p><p class="ql-block">第五部 完結編 文化大革命の嵐の中で</p><p class="ql-block"><br></p> 正文 <p class="ql-block"><b>第一部 中国への第一歩</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">发表于いわき文学创刊号 1973年</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">赤茶けた急な斜面に白い火山岩がごろごろしている山々に囲まれた香港の街がはるか下の方に見えてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">突然、機は列車が急ブレーキをかけた時のような激しい振動をはじめたなと思うと、高層ビル群と周囲の山々が急に眼の前に大きくもりあがってくるように近づいて、ぐぅーっと傾いた。青緑の明るい海面と岸近くたちなら赤や青の民家の上を胴体が触れるのではないかと思われるほど低く低く飛んで、機は着陸体制を整えた。道路や建物・電柱などが足もとをおそろしいはやさで後方に流れていった。ゴツッと軽い衝撃を感じた直後からはスピードは眼に見えて恐ろしくなり、やがて自動車ほどの早さになった。機はさらにスピードを落としゆっくりと左に方向を変えてしずかに止まった。香港島と面つき合わせた九龍半島の南部海岸にある啓徳空港についてのであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「たすかったな」と同行の海野君(=水野君,注:发布这篇文章的时候,水野先生还在党内担任要职,为避免带来不必要的麻烦,用海野的假名。再版的时候,估计是尊重原著,没有订正。-Anna注释)にいうと「うーん、ほんとだなあ」と厚い眼鏡のかげの眼をまるくして、うれしいそうに笑うと同時に、フーッとため息を吐きながら肉づきのいい肩を落とした。右の方にいた西洋人の婦人がセッティングベルトをはずしながら、こちらを向いてにっこりほほえんだ。わたしと海野くんの会話は多分聞こえなかったはずだし、聞こえたとしても日本語のしかも訛のつよい東北弁だからことばとしてはわからなかったにちがいないが、わたしたちのようで、それと察して同感の意をあらわしたものらしかった。私たちも半分てれながら笑顔を向けた。実際、この一九六四年という年は世界的に航空機事故の頻発した年であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">背広の上にカーデガンをはおり、その上にさらにオーバーを着込んでタラップを降りていった。十二月の四日だというのに、午後3時の香港は暑かった。摂氏二十五度ぐらいはあるだろうと思われた。羽田を発つ時は冬の海風にあおられて、二度か三度の寒さだっとのに、さすかに何国だと思った。カメラぶらさげ、ショルダーバッグを肩にかけていては今さらオーバーをむぐわけにもいかず、額に汗をにじませながら、がまんすることにした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">機のすぐそばに機内バスが来ていて、客たちはそれに、次々と乗り込んでいった。ほんとうにこれに乗り込んだら、いいものかどうかちょっと迷ったが、誰に何語で開いたらいいのかさえわからない。不安だったか思い切ってのりこんだ。海野ぐんも同じ思いだったらしかったが、黙って私についてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">スーツケースを受け取り、税関をぬけて出ると、そこは、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、日本人・・・と着衣から肌の色まで、種々様々世界中の人種の博覧会のような色彩の賑わいだった。だれもが、そこでは、なれたわが街を行くような安定した表情をしているように見えた。私たち二人はいかにもそうした雰囲気にそぐわない人種のように思えた。実際、他の旅客たちの豪華な服装豊かなそうな表情は自信にあふれていたし、その態度にこだわりはなかった。</p><p class="ql-block"><br></p> <div>日本を発つ前に旅行社の係から言われたいた通り、中日旅行社の旗をさがすと、すぐに見つけた。旗を持っていたのは曹さんという中国系の香港人で、日本の大学に2年ほど留学していたとのことだったが、その日本語はひどいものだった。たとえば「ホテルで、食うと住むとみなただでで」、これは正常な日本語によると、「ホテルでは宿泊費も、お食事代もお支払いになる必要はありません」というほどの意味で、すべてがこんな調子であった。しかし、わたしたち二人にとっては一番たのもしい、たよりにしていかなければならない人間だった。<br><br>曹さんに案内されてステーションのおもてへ行く通路には色々な広告がびっしりと出されていた。私も知っている欧米の大企業の広告にまじって、SEIKO、SONYなどの日本の企業のものが大きく出ているのにはっとさせられた。この瞬間、わたしの心の中の半分浮わついた旅行気分が凝固していった。”植民地香港”。ここは、英・米をはじめ世界中の大資本から食い物にされてきた植民地アジアの矛盾の吹きだまりのようなところであった。そこに又ぞろ大急きで割り込んで来た日本の独占資本の姿。背筋を冷たい緊迫感が走った。<br><br>玄関には、その横腹に英文と中国語でそれぞれ、”ゴールデンゲートホテル”、”黄門飯店”と書いてあるあずき色を塗ったマイクロバスが待っていた。大型のスーツケースと小物を入れたショルダーバッグを積み込んで、ホテルへと向かった。<br></div><div><br></div> <div><br></div><div>このゴールデンゲートホテルは日本人んがよく泊まるところらしく、わたしたちのほかにも何人かの日本人が泊まっていた。<br><br>ロービに荷物を置いて待っていると支配人の黄さんという五十歳のやせぎすの紳士が出ていて流暢な日本語で旅の労をねぎらい、最後に「何かご用がございましたらカウンターか係の給仕にお申しつけください。お言葉で不自由がございましたら、わたしくのところへお電話をくださいますように」というと電話番号のついた名刺をおいていった。<br><br>わたしたちの部屋は世雲海にとってあった。わたしたちの荷物を持って案内してきた四十五歳位の中国系の香港人のボーイがびんづめの水を持ってきた。のどがかわいていたので、コップに注いで飲んだがなんともものたりない味で下にざらざらしたものが残った。<br><br>ひと風呂あびようと思ってバスルームに行って湯栓をひねってみるとほとんど水に近かった。<br><br>お茶のセットを持って入ってきた先ほどのボーイに海野君が「いつ、入浴出来ますか(ウェン・カンナイテークァバス)?」と英語できいた。海野君は日本では中学校で英語の教師をしていた。海野君の英語はわたしにはよく通じた。しかし、ボーイは快呀な顔をした。通じなかったらしい。海野君はもう一度同じ英語?をくり返した。しかし、そのボーイはますます怪呀な顔をした。とうとうたまりかねて、便せんを取り出して「When can I take a bath?」と走り書きしてみせると、ボーイは「ああ」と言って、「エネィタイム(いつでも)」と言って出て行った。<br><br>「いや、出してみたらぬるかったので、いつごろ熱いお湯が出るのかをきいているんだ」と言いたかったのだがそんなことを英語でどう言ったらいいのかはとっさに出てこなかったし、よしんば言ってみたところで、まともに通じはしなかっただろう。<br><br>それでもお試みに、湯口のコックをひねってみるとはじめはやはりぬるかったが、やがて熱いお湯が出てきた。二人は顔を見合わせると、さっきのボーイの口調をまねて「エネィタイム」と言って大笑いをした。<br>湯上がりに、タオルで額の汗を拭きながら窓をあけてみると、そこは、路地に面していた。夕暮れが近かった。茶色いやせた犬が一匹ふらふらと歩いていた。わたしが首を出している窓の真下に、四十歳位の中国系の女がゴミ入れから残飯や野菜くずなどをえり分けては手にさげた籠に入れていた。わたしと彼女の距離は十メートル以上あったが、陽にやけた首すじはアカに汚れているのが見えた。時折、腰をのばすときに見える表情には生活の疲れと深いかげりがあった。<br><br>二流とは言え、ホテルのわりあい良い部屋で日中から、ふんだんにお湯を使って風呂にはり、ソファーに足を組みながらビールを飲み、ベットに寝ころんで本のページをめくったりしている自分がいかにもそぐわない存在であることの思いが、胸に痛くくいこんできた。この人の家族はどんな家でどんな暮らしをしているのだろう。着るものは、食べるものは?子どもたちは、としよりはどんな気持ちで毎日を暮らしているのだろう?次から次とこの人の家庭のことや暮らしむきのことなどが思われてならなかった。<br><br>(東京にそっくりだなあー)どことなく、ほんとうにどことなく“に・て・い・ル”。百八十人乗りの豪華なジェット旅客機に乗って羽田を発つころから、日本での毎日のくらしの中で、やりきれない感じでひしひしと迫ってきていた息苦しさから解放されて別な世界に旅立って行くような浮いた気持ちがわたしの心のすみにそっと頭をもたげ始めていたが、それに、ゴツんと一撃をくらった感じになってしまった。<br><br>ゴミ箱をあさりながら、香港の夕暮れの裏通りに消えて行ったあの女性の後ろ姿がわたしの脳裏に強くやきついてしまった。</div><div><br></div> <div><br></div><div>ホテルの食堂で夕食をすませてから、せっかくの機会なので香港の街を散歩がれらみてある行くことにした。<br><br>黄さんが出てきて、私たちにいろいろと注意をした。街には悪いやつ大勢いるので注意するように、暗いところや、人通りの少ないところには行くな。日本語で話しかけてくるものがあってもついて行ってはいけない、などというものだった。そして最後に、「では先生方でゆっくり行ってらっしゃいませ」と、つけ加えルのをわすれなかった。関西訛りだから実に美事な日本語だった。夕方、六時半の街は退勤時のラッシュだった。<br><br>大デパートから間口一間ほどの小物店まで、大小の商店が縦横の街路に面してびっしりと立ち並んでいた。<br><br>とある小さな商店の入り口に三十歳位の女がお碗を手に持ってつっ立っており、通りすぎていく人々をジロジロみながら、長い箸で飯をかっ込んでいた。古い中国は、この世界よって解放される以前の中国では食べるものもちろんになく、国民のほとんどが飢餓線上をさまよっていた。食を欠く日が何日も続くということもめずらしいことではなかった。そうした中で、とにもかくにも食いもののある者は「オレはちゃんとメシを食べっているぞ」とばかり家の戸口に立って、誇示しながら食事をしたもので、それが、現在でも、一部は本来的な意味で、そして大部分は悲しい習性として残っているのだった。<br><br>デパートや小さな商店などを「How much(いくら)」だけを武器に1時間ほどひやかして歩いているうちに、”花の木”と日本文字の看板のかかった居酒屋の前に出た。中からは東海林太郎の赤城の子守唄が聞こえてきていた。一種懐かしい気持ちで立ち止まったが暖簾を押して入る決心がつかなかった。<br><br>「どうだ、ちょっと入って日本とのしばしばのわかれをしてくるか?」と海野君を誘ってみると彼は「いーいねー」と言いながらも、やはりためらっている風だった。主にはフトコロ具合がそうさせてのだった。<br></div><div><br></div> <div><br></div><div>ホテルに帰って床についたのは夜の十時をまわったころだった。軽い興奮状態でなかなか寝つかれなかった。<br><br><br><br>翌日、九龍の駅から九時ごろの列車に乗り込んで、中華人民共和国とこ”国境”深圳へと向かった。入り込んだ入江に沿って列車は走った。列車の左、山手にはモダンな高級住宅が段々になって立ち並び、その輝くばかりの風情は、そこに住む人々の暮らしの豊かさをものがたっていた。一方右手の海岸近くは軒のひくい、じめじめした感じの貧民窟がびっしりとつづいていた。その背景となっているのは大鵬湾の一部になっている入江に浮かぶジャンクの群々だった。帆をたたんだもの、永遠の敗北のしるしのようなぼろぼろの帆を張っているもの、その甲板で何やら立ち働いている人々。遠浅の入江で海草や貝などを採っている老人や子供の姿。そのどれにも、おそろしいまでの貧しさがしみこんでいるように見えた。<br><br><br>ここに住む人々はいったいどんな気持ちで暮らしているのだろうか?いくらも距離をおかずに対照的な暮らしをしている人々のそれぞれの心の中はいったいどんななのだろう?<br><br>貧民窟やジャンクでの水上生活者たちは毎日どんな気持ちデコの高級住宅群に住んでいる人たちはほとんど英米などの外国人たちだがどんな感情を持ちながら、これら土着の中国人たちの貧しさを視野の中に入れているのだろうか?両者の間には溝とよぶにはあまりに深い”断絶”があるように思われた。ここは確かに中国だが”中华人民共和国”ではなかった。<br><br>12月入ったばかりの南の陽の光は眩しかったが、全てを見つくそうと、わたしは貪欲に眼をみひらいていた。<br></div><div><br></div> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">”深圳”そこにはわずか五十メートルばかりの巾の流れが香港を中华人民共和国から切り離していた。川向かうの左手には二百メートルほどのゆるい丘陵がもりあげって見えていた。列車はコオから先へは進まない。わたしたちは他の大勢の旅行者たちにまじって線路の取り外されている鉄橋を渡った。鉄橋の真ん中ほどに小さな出入国管理事務所がって形ばかりの検閲を受け、いよいよ中华人民共和国への第一歩を印したのであった。そこからさらに二百メートルほど歩いて、深圳駅の待合室に案内された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">駅の建物はブロック建築で、華美ではないが清潔で広々としていた。私たちの待合室は駅の中央の二階であった。そのバルコニーから眺めた風景は香港のそれとはまったくちがっていた。榕樹の葉の濃い緑に正午の陽光がさんさんとふりそそいでいて眼にちかちかまぶしかった。パイナップル畑、野菜畑、果樹園などが整然と眼の前に果たしなく広がっていた。古い建物はほとんど見あたらず、かわらぶきのプロックの建物が多かった。平屋かせいぜい二階どまりで、三階以上の建物はわたしの視野には入ってこなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">人民公社の社員らしい男女が、四、五人ずつにわかれて、それぞれ、地をモッコにつめて運んでいた。その横の方では建て掛けの家のプロックをつんでいる人々の姿もあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">天秤の両側に茘枝の実をわんさと積んだ籠をぶらさげて駅のすぐ下の赤茶けた道路を賑やかにおしゃべりをしながら通りすぎていく若い女性たちの背にはきれいに編まれた弁髪が腰よりもひくくさがってゆれていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わずか五十メートルの川をへだてただけでなんというちがいだろう。そこでは、人々はみな要項の中で生き生きと立ち動き、建設のつち音が高らかに鳴りひびいていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">川向雨の香港領内で見てきたような山の手と海岸のような貧富の差はどこにも見あたらなかった。社会主義社会中华人民共和国、わたしたちはとうとう”別世界”にやってきたのだった。</p> <p class="ql-block">四月30日の更新</p><p class="ql-block"><br></p> <h1><b>第二部 中国の人々</b></h1> <p class="ql-block">发表于いわき文学第二号 1974年</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">国境の深圳から午後二時過ぎの急行に乗り込んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">金という流暢な日本語を話す通訳が同乗した。彼はかっしりとした体格をしていて、四十歳を少し出たと思われる年かっこうの朝鮮族だった。車中、チューインガムや果物などをすすめたが「ありがとうございます。わたくしのものは別に用意されておりますから…」と決して手にとろうとはしなかった。わたしにはことばも自由に通じて、信頼できる仲間にやっと会えたという心おどりがあったのだがこうした金さんの態度はさびしくもあり、多少不愉快でさえあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">貧しい中から、社会主義社会を建設していこうとしている中国にあっては通訳の仕事は特に重要な意味をもっている。通訳は対外的な政治、経済、文化の窓口であると同時に、反社会主義的な思想の流れ込む窓口、いわば思想的病原菌の流れ込む窓口でもある。そうした意味からも通訳は厳しい教育を受けているのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">資本主義社会体制の中にどっぷりと使って暮らしてきた日本人のわたしの体内には大人ぶった、おごった気持ちが浸み込んでいたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">金さんの態度は中国人民の自力更生の気概を示すものだった。それにひきかえ、わたしは自分の考え方の弱さにはっと気づかさ、はずかしい思いだった。しかし、わたしの心のどこかにまだ不満が残っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">又金さんはその前も私たちが広州を離れるまで、一度も私たちがすすめたものに手を出さなかった。</p><p class="ql-block">「ありがとうございます。わたくしのものは別に用意されておりますから…」と。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">列車は午後五時半近く広州の駅に着いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">空にはオレンジ色の夕焼けが映えていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">賑やかな街の通りにはシャッツ姿の労働者が自転車で家路に急ぐ姿や、籠をあげた女の人かたちが買い物に行き来している姿が目立っていた。それぞれの人々の頬は赤く夕焼けに映得ていた。</p><p class="ql-block">駅からホテルまでは二十分位しかかからなかった。ホテルは六階たてのかなり大きなものだった。正面には広い庭があって花壇は整理されていた。背の高いカンナの花の燃えるような赤が目にしみた。十二月五日だというのに。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">正面玄関に入ると、そこは、ソファーが幾つ組も置かれて、待合室をかねたホールになっていた。ホールの中央には高さ三ー四メートルもある毛沢東の大きな石工像が据えられていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">部屋は四階にとられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕食後に市長の招待でバレエを観ることになっていると金さんが告げに来た。日本の松山バレエ団が中国公演に来ていて、今夜はちょうど広州で公演があるとのことだった。演目は「祇園祭」とのことだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夜、生まれて初めて生のバレエを観た。日本では千円ほどの入場料が払えなくて観ることができなかったのに、外国に来て、日本のバレエを初めて観ることになった。まったく皮肉な話だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">生まれて初めて観たバレエ「祇園祭」はわたしを充分に楽しませてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ホテルに戻ったのは夜の十時に近った。その夜、海野君とはじめて身の上ばなしをしあった。</p><p class="ql-block"><br></p> 海野君は福島県の太平洋沿いにある小さな農村に貧しい小作業の六男として生まれた。彼の家の農具といえば土間の隅に置いてある数丁の鍬と鎌ぐらいのものだった。おうへいな地主の前に、いつも腰を折っておじきをしている背の低い影ばかりが幼い頃から彼の脳裏に焼きついて離れない父母の姿だった。<br><br>小学校、中学校と成績は良かったので、炭坑に働きに出るようになっていた兄たちの応援を受けながら高校、大学へと進んだ。<br><br>大学では自治会の役員の触発を受けて、現在の社会の不合理を知り、矛盾を学んだ。彼は学生自治会の中心的な活動家として仲間の信頼を受けるようになった。<br><br>彼は今中国にわってきた。しかも、学生自治会の活動家として徹底した就職差別を受けるなかで、やっと手にした教職を投げうって中国に渡ってきたのだった。中国に渡る決意をするに至るまでの経過についてこまごまとは語らなかった。わたしの問いに対して彼は短くこういった。「本当のことを知ってしまったということはきびしいことだよなー」<br><br>もうなにも聞く必要はなかった。色々と苦しいことはあっても、それが理にかなったことなら、自分の中の人間としての尊厳がその道を選ばせるのだーという彼の心意気がわたしの心に充分にひびいてきた。<br><br>こうした、海野君のような人たちこそ、この歴史をどんどん押し上げていく人なのだなあーとしみじみ感じさせられた。<div><br></div> <p class="ql-block">湯本三中教師時代 1963.3</p> <p class="ql-block">話題はいちきり、教え子たちの話になった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは教職二年目に担任したSのことを思い出していた。わたしが大学を出て、最初に赴任したのは相馬市の北、宮城県との県境に位置する半農半漁の村の中学校だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">二年目に二年生を担任したが、その中にSがいた。Sはよく学校を休んだ。学級費、PTA会費なども自分で使ってしまって納めなかった。学校を休んで隣の中村(相馬市)にでかけてはスーパーなどをうろついたりしていた。近くにある空き家に入ってタバコを吸ったり、学校帰りの女生徒を待ち伏せしていていたずらをしたり・・・という、いわゆる問題児だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">プロテスタントの求道者だったわたしはSのために心を痛め、真剣に考えた。Sが学校を休むと空き時間に、自転車で三キロほどの山道をSの家まで迎えに行った。家には大ていいなかった。家の近くの山林の中を「S・・・!」「S・・・!」と呼びいながらさがした。大ていの場合は杉の大木の根方あたりからおずおずと出てきたものだった。Sを見つけると自転車の荷台に乗せて大急ぎで学校に帰った。学校に来て宿直室などで話してきかせると、しんみょうに話を聞いたし、そのかぎりでは何も問題はなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、Sのやることはその後も一向に改められなかった。だから私は幾度となく、空き時間にSの家へと出かけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">Sの家は阿武隈山の北部にある海抜五百メートルほどの高さがあるKという山の裾野に点在する開墾地の一隅にあった。入り口の板戸をこじ開けると、うすぐらいあがりがまちに三尺四方の炉が切ってあって、まわりには莚が敷いてあった。壁ぎわにはみかん箱が横のおいてあって、中段をうすい板で仕切って茶ダンスの代わりをしていた。八畳ほどの広さの居間はその奥の三畳ほどの小部屋とぼろ障子で半分だけ仕切られていた。その奥の小部屋にはぜんそく病みの爺さまが万年床に横たわっていた。たまに家にいるSに対してこの爺さまは「S!このがぎゃ、なにしてけつかる!」と、こけた体を半分起こしてどなりつけることだけが仕事だった。Sの母は三反ばかりの畑のあいまに、近くの農園に日雇いとして働きに出ていたし、家族の中で一番慕っている父ちゃんは川崎に出稼ぎに出ていて年に一度か二度しか帰ってこなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">Sのところへ足を運ぶことに私のこころは重くなっていった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この年、昭和三十七年には白黒だがテレビは大部分の家にあったし、こんな田舎の中学生にもサージの学生服を着てくるものが多くなってきていた。こんなときに、テレビどころかラジオすらない生活で、父もいない家庭、学校に行けば成績が悪くて授業には全然ついていけないといった情況のもとで、抽象的なお説教がいかに薄っぺらで無力なものであるかを私は悟らないわけにはいかなかった。加えてSの顎から喉にかけて大きな火傷のあとがあって顔の形を変形させていた。思春期にかかっていたSがコンプレックスのかたまりのようになっていったのは当然すぎるように思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">思い余った私は校長に相談してみた。地元のでだったその校長は「あの家はだらしなくて、親の代から学校へもろくろくいかなかったんだー」といった調子で、私のかかえている問題に助けにはならなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そうした問題をかかえて悩んでいた私に、組合の役員をしていた木幡という四十才をすこしこした教師が時々助言をしてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「お説教でみんな善人になるんなら、おらたち、教育のなんだのって苦労してっことねぇー。お釈迦様かキリスト様にまかしとけばいいー。ところが、そーでねえんだな、世の中。ほんとうに教育を考えるなら、教え子たちが世の中に出たとき、人間らしく生きていけるような世の中にしていくという努力を教師自身がいつもしているかどうか、ということと切り離して考えるわけにはいかないんだ。それがなけり、どんなすじの通ったお説教も、なんの意味を持たない、無駄なひとりよがりのおしゃべりさ」ある日酒の入った木幡氏は私にこういった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「ところでSの場合はどうなんだ。どこをどうすればいいと思うんだ?」彼は私にこう切り込んできた。私はSの家庭状況を説明しもうすこしましな生活ができ、父親も出稼ぎでなく地元で働き、人並びのテレビも見れる生活だったら、お説教ももう少し効き目があると思う。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">木幡氏は左手の盃の酒がこばれないように気遣いながら首を縦に大きく二度振った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「ほだよなぁー。父ちゃんの出稼ぎなぁー、おらたちの生活費の余りではSの父ちゃんの出稼ぎやめさせ欄にしなぁー。似だよなくらしむきのは、ほかにもいっぱいいるし。こういう問題はおらたち貧乏教師の小細工などではどうにもなんねえんだ。</p><p class="ql-block">あんたも若ぇんだから、世の中のしくみもよく勉強して、ほんとうに子供たちのためになる教育のできる教師になってくれー」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この夜の酒は、木幡氏のことばとともに胃の腑に苦く浸み込んだ。このときから、私は教育と政治との関わりについて貪欲に追い求めるようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">こうした、木幡氏との出会いのあった二年後、新しい中国が日本語の教師を求めているのに応えて、「よい教師になってくれー」という彼の願いに反して、教壇を去り中国へ渡る決意をしたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">湯本三中時代の相撲部顧問 </p><p class="ql-block">1964.4 中連体</p> <p class="ql-block">海野君はショルダーバックからサントリーの小瓶を出してきた。二人はまだ1/3ぐらい残っていた日本のウィスキーを名残りおしそうになめるようにして飲んだ。うまかった。私たちは胃の腑まで日本人であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ホテルのベランダから眺めた市街地は明かりの数も少なく、東京などとは比べ物にならないほど静かな夜だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">次の日は日曜日で飛行機が休みとがで、初夏のようなあたたかさの広州をあちこち見物してあるいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">毛沢東たちが国制の改革をめざして、若い労働者や農民を教育した老農学校跡とか、革命烈士廟であるとか中国革命に関係の深いところに多く案内されたが、中国近代史に疎い私にとっては、初めて耳にすることばが多くてなかなかついてゆけなかった。</p><p class="ql-block">そうした見学場所の中で広州交易の展覧会場は興味ある見学場所だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">機械類、衣料品、地下資源、食料品、工芸美術品などこの大きな展覧会場に無数に展示されている品々は特に予備知識のない私に、現在の中国の経済状況をはかる尺度を与えてくれた。豊富な地下鉱産資源、豊かな農産物、目をみはらせる工芸美術品、高い天井に届きそうなところから放射状んいかけられている美しく染め上げられた布生地の鮮やかな色彩などが強く印象に残った。素人目にも金属の質はかなり良いものができていたし、大型機械から精密機械に至るまで、私がそれまで予想していたよりはるかに進んでいることを感じさせられた。もっとも、この年であるから、そのときの中国の工業科学の水準は、少なくとのそのピークとして原子爆弾を作り出す科学技術面の基盤があったわけであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国が第一回の核実験をおこったとき、私は心の中で「やったぁー」と声をあげた。アメリカが核装備を先頭する巨大な軍事力を背景としながら、世界中の国々の主権を犯した戦争火つけ人として乱暴を動いていた、とりわけ、ベトナム侵略、朝鮮での戦争挑発、中国封じ込めなどのアジア政策はどうにもがまんのならないものでだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">こうした中で行われた中国の核実験はアメリカの核軍事政策に痛撃を与えるものとして、私には快く感じられた。実験と同時に中国政府は最初の核使用国にはならないことを世界に宣言した。私はこのときの中国に実験を核についての態度を含め、やむを得ないものとして認めるべきだろうと考えたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> 革命烈士廟はなだらかな丘陵地にある広い公園の中にあった。公園の中には、いたるところに亭が設けられていて、家族連れや、若いカップルなどが休憩したり、弁当をひろげたりしていた。<br><br>半ズボンに開襟シャツ、サンダル履きの男もいた髪を長くおさげにしている娘たちのゆったりと歩いていた。<br><br>毛糸で編んだカーデガンを着て、メガネをかけ、カメラを肩からぶらさげた私たちは人目を引いたようだった。<br><br>物珍しそうに寄ってくる人も何人があった。通訳にひとことふたことと言われて、離れていた。そして、時々ぬすみ見るようにして、チラリチラリこちらに視線を送っていた。そうした人々にも触れてみたいと思いながらも、ことばを知らない私たちはただあいまいな笑顔を返すよりしかたがなかった。<br><br><br>夕方四時頃から街の見物につれて行かれた。商店街は買物籠をさげた人々でいっぱいだった。道路には自転車に乗っている人が非常に多かった。街を歩いてみてはじめて気がついたことだが、自転車は日本のものより車輪がひとまわり大きく、サドルも高かった。<br><br>街ゆく人々の身なりは質素だったが何か大きなあたたかさにつつまれてでもいるようなおだやかな身のこなしと雰囲気をこの人々は持っていた。<br><br>日本でならどこでも見られる街角をきかせかと通りすぎていく人々の群れとはかなりちがったものを感じさせた。<br>わらしは、この人々の群れに深く心引かれる思いでいつまでもその動きをみつめていた。そのもも、この人々の群れの中に溶け込んでいってしまいたいと思った。<div><br></div> この日の夜、市委員会招待の晩餐会がった。通訳にともなわれて〇〇酒家(名を忘れてしまった)という高級料理店に行った。ここは広州一の料理店で、開放前は高級官僚や大地主、大金持たちだけが遊興飲食を楽しみ、とりひきの場としていたとのことだった。たしかに大きな料理たんだった。日が暮れてしまってから行ったので建物の外観はほとんど見ることができなかった。内部も水の澄んだ流れが引いてあって、その上に手のこんだ彫刻やかざりのついた欄干のある渡し橋がいくつもかかっているし、長い廊下が縦横に走っていたのでどのくらいの大きさのか見当がつかなかった。<br><br>私たちの歓迎晩餐会のために準備されていた部屋はそうしたかなり奥の方にあった。途中、労働者らしい家族が楽しそうに歓談しながら食事をしている部屋の前をいくつも通りぬけていった。<br><br>わたしたちを迎えたのは、背はあまり高くないが肩巾の広い、がっしりした骨格の劉という責任者と幹部役員達七人ほどたっだ。かたい握手をかわし、すすめられて席についた。<br><br>通訳の司会で歓迎のあいさつからはじまった。劉さんはどうしてもかかせぬ用事のため市長が出席できないことと、歓迎会が昨日でなく、一日おくれて今日になったことを詫びてから、「先生方が中国人民の社会主義建設を援助するため、祖国と両親や家族、友人たちから離れて、遠く中華人民共和国においてくださったことに心から感謝し、歓迎します」とかなり長いあいさつをした。<br><br>通訳の金さんの語調は淡々としていたが、劉さんの中国語はうねりのある朗々としたひびきを持っていた。<br><br>こんな正式な歓迎のあいさつをうけるとは予想もしていなかった私たちは答礼のあいさつにとまどった。中国側のあいさつのなかみがわたしたちをあまりにも高く評価しすぎていたのには閉口したが、それをいうこの幹部たちの非常に率直な態度から、中国側のわたしたちに対する期待の大きさを感じないではいられなかった。この時わたしたちの背負ったものは肩にずっしりと重いものだった。<br><br>この夜の料理は、わたしにとっても海野君にとっても生まれてはじめての豪華なものだった。特に茅台酒の味とキューバからの輸入品だという食用ガエルの肉のやわらかな舌ざわりは忘れられないものだった。<div><br></div> <p class="ql-block"><b>北京へ</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">通訳の金さんに見送られ、広州の飛行場から北京へ向って出発したのは次の日の午後二時だった。飛行機はイギリス製のターボプロット機で七〇人乗りぐらいのものだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この民航機は四ー五千メートルの高さで飛んだ。わたしは空から地上をむきさぼるようにみつづけた。中国南部の広大な農地や湖、大小の河川がはてしない広がりを持って視野に入ってくる。パノラマのような地上をあたたかい日の光がまんべんなく包んでいた。わたしがとびたってからしばらく、この地方は快晴であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">整然と区画された水田ばかりが視野の限りつづくのをあきることなく眺めていた。巾の広い河が大きな曲線を作りながら地平線のあたりで空と溶けあっているのをどこまでの眼で追いつづけた。こうした、とてつもない広大さにわたしはすっかり心をうばわれてしまっていた。いくつもの市街地や集落の一つ一つを知りつくしたい心にかられていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">視界が急に暗くあったなと思った瞬間、機は突然はげしくゆれはじめた。窓外を霧がさーと流れて、ガラスに無数の水滴が着いたなと思う間に、それはたちまちゆがんだ水流の紋様とかわった。小舟が波浪をこえてつきすすむときのように、ぐうーっともちあがったかと思うとまた沈み、沈んでは又もちあがった。雲の中に入ったのだった。(後で知ったことだがこういう時には百メートル前後の上下運動をしているのだそうである。)</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">気分が悪くなってきた。とくに機が沈むときは全身の血が引いていくような悪感にさいなまれた。キャンデーを運んできた美人スチュワーデスの笑顔のサービスも効き目がなく辟易した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">雲を通りぬけるとまたもとの快適な飛行がつづいた。長江(楊子江)の上空を通りすぎて、いくらもたたないうちに、日は暮れはじめていた。地上には黒い影が尾を引きはじめていたが機の翼はまだ赤々と日の光をうけていた。それた太陽の明るさが消えると外にはうるしをぬったような黒ばかりが残った。黄河上空の通過はスチュワーデスの案内で知った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夜七時少し前、スチュワーデスが寄ってきて窓の外を指しながら海野君になにやら説明していた。見ると下方はるかに街明かりが見えはじめていた。北京であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">機はだいぶ高度を下げているようだった。斜め下前方に等間隔の灯が二列長く続いていた。はじめ、空港の滑走路かと思ったが、それは有名な天安門通りだと聞かされた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そこを飛び越してはるか郊外の北京空港に着陸した。零下五度という寒さだったが、緊張のせいか寒さを感じなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">出迎えの中国人たちはみな綿入れのオーバーに身につつんでいた。</p><p class="ql-block"><br></p> 北京には四日間滞在した。到着した次の日、金という朝鮮族の通訳に伴われて万里の長城見学に出かけた。<br><br>市街地から北西二百キロメートルほどのところにある有名な八達嶺がめあての場所であった。自動車や、舗装された道を三時間近くもかかってやっと着いた。八達嶺の麓は歴史にな高い居庸関であった。高い山の尾根づたいに築かれている長城は登っていると想像を絶する規模の大きいものだった。長城は上がちょうど石畳をしきめた道路のようになっていて巾は九メートル、大型トラックが三台ぐらい並んで走れるくらいの巾があった。大きな石やレンガで作られているこの要塞は高さが十メートルほどだった。このように壮大な建築物が簡単な道具ぐらいしかなかった時に作られたことにおどろしく同時に、この大工事にかりだされた古代中国人民の苦悩が心に痛く思われてならなかった。あの孟姜女の悲しい物語がフット思い出された。<br><br>孟姜女の物語とは秦の始皇帝が長城を築くために国中から大勢の人夫を集めてきたが賢く美しい若孟姜女の夫範喜良もそのひとりだった。夫からは何ヶ月も便りすらない。生活のくるしさや淋しさを、夫はもっと辛い思いをしているのだろうと思いながら耐えていた。<br><br>その翌年の寒さに向うころ、長城はずーっと北の方にあり、手足も凍るほどの寒さだと聞き、いてもたってもおられず、いそいで綿入れと防寒ぐつをつくり、夫に届けようと旅に出ます。なに地も何日もかけて歩き続けて、雪の降り積もる極寒の日にとうとう長城付近にたどり着きました。その道ばたに孟姜女が見たものは累々とした人夫たちの屍の山でした。不安におののきながら、おちらの工事現場、こちらの工事現場と夫の消息を訪ねて歩きました。夫範喜良はやはり死んでいたのでした。<br><br>悲しみのあまり孟姜女の鳴き流す涙は大きな川となって、八百華里(四百キロ)もの長城を崩してしまいました。<br><br>その話を聞きつけて様子を見にきた始皇帝は孟姜女のあまりの美しさに心をうばわれ、妃になれるといいます。<br><br>孟姜女は三つの条件を出しました。それは金の柩に夫範喜良の葬式を出すこと、役人全員が喪服をつけること、皇帝も喪服をつけて墓地までおくること、の三つでした。<br><br>皇帝はその通りにしました。葬式が終わった時、孟姜女は突然身をひるがえして、かたわらの川に身を投げ、金色の魚になって底深く沈んでいったのです。<br><br><br><br>頂上から西の方を眺めると、うねりながら幾重にもつづく山脈の切れ目から内モンゴルの方へとつづく砂漠と湖がチカチカかがやいている光景が見えた。<br><br>風は骨身に浸みて冷たく頬の肉がこわばってしまっていた。「さむくないか?」通訳の王さんがわたしに聞いた。王さんは日本語があまり上手ではなかった。本来ならば、「寒くはありませんか。」と聞くべきところなのだろうが・・・しかし、その調子にはわたしたちの身を気づかう気持ちが込められていた。<br><br>「ええ、だいじょうぶです」<br><br>わたしは、風にさからいながら、はるかな砂漠と湖の光を見つづけていた。<br><br>王さんも、私のすぐそばに立ってしばらく一緒に眺めていたが五分も経ったないうちに、<br><br>「もう帰るか?」と言った。海野君と一緒に私たちのところに来ていた金さんがあわてて王さんのことばに重ねた。<br><br>「もうそろそろ帰ることにしましょうか。風もだいぶん冷たいですから」<br><br>「はい、もう少し」<br><br>私はこの風景に引かれていた。どんどん歩いていって、内モンゴルの地を足で踏んでみたかった。その地の人々の生活の中にまじってみたいという心にかられながらじっと見つめていた。<br><br>後髪を引かれる思いで去ったのは午後一時を少しまわった頃だった。<div><br></div> <p class="ql-block">その夜、中国の対外文化協会の主催する晩餐会に招待された。これが私たちに対する中国政府の正式な歓迎会であった。晩餐会場は歩哨の立つ奥まった建物の中にあった。中国側からは張安博氏が出席した。極めて正確な日本語を話す女性通訳がついて。彼女は張氏のことばを明瞭な日本語に置きかえていたが、時々張氏に訳語の訂正ををさせられていた。張氏はもともと戦前日本の大学で留学していた日本語はもちろん、日本事情いにも精通しているという面では中国屈指の人物だった。ある親しい日本人たちとの酒席では「日本の歌を歌います」といって、「ホーレター女房に三クダーリ半ヌー」とうたったことがあるというエビソードの持ち主でもあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">晩餐会がすすむにつれて、私たちが中国へ来る直前訪中した全日本女子バレーの大松博文監督のことが話題になった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼は大松監督を高く評価していた。わたしはそれに疑問をさしはさんだ。わたしが彼の大松評価に批判的であることを知って、やや気色ばんだ調子で、人民日報(中国共産党機関紙)にも出ていたように中国としても大松を高く評価している。人間の持っている潜在的な力をあそこまで引き出すことができた大松は偉大だったと強調した。彼はやや甲高い声調の持ち主だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">スポーツというものの本来的なあり方からして、又、教育的な観点からして大いに疑問がある。そういう観点から切り離して大松方式を全面的評価するのは危険だ。世界一という結果の大きさに引きずられた評価のしかたのように思えるし、アジアコンプレックスのはねかえりではないのかというわたしの意見を述べた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ロウ・ミン氏も彼の主張をゆずらなかった。張氏は表情を動かさずにわたしとロウ・ミン氏の議論を聞いていた。厚みのある肩の上にのっている頭は丸く、大きめだった。薄い茶の色が入った眼鏡の奥にある眼の光はするどく、体全体からある迫力が感じられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼はついにわたしたちの議論には口をはさんでこなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、ロウ・ミン氏との議論を適当に切り上げたいと思った。わたしは、自分の話すことばに裏付けと説得力ああまりないことを感じはじめていたし、張氏の存在も気になりはじめていたからだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この夜、二人は大連に行くことが決まった。</p><p class="ql-block">五月一日更新済み</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">次の日は北京の中心地天安門広場をかこむ三つの建物を見物した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">二百万人が集会を開くことのできる天安門広場は五〇〇メートル四方ほどの広大なもので、北に朱色にそびえる天安門、西に人民大会堂(国会議事堂にあたる)、東に歴史博物館がそれぞれそびえるように立っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">人民大会堂はみがきあげた大理石が主材だった。正面の階段をのぼると直径ニメートル、高さ二十四メートルの大理石の円柱が十本ほど並んでいた。内部は緋の絨毯が敷きつめてあった。人民大会堂は日本の国会議事堂にあたり、多民族国家の中国では、各民族ごとの代議員控室があって、名産の刺繍で飾るとか、竹製品だけで飾るとか、それぞれの民族の特性を表した部屋になっていた。日本の国会のように政党や会派別の控室とはかなり趣を異にしていた。中国がかかえている民族問題の重要さを痛感するとともに、国内各民族の大団結をめざす新中国の配慮とまじめな実践を感じてうれしかった。本会議場は一万人を収容できるステージつきの大ホールとなっていて、演劇やオペラの鑑賞、又、屋内集会場としても使われていた。この点では日本の国会議事堂とはまったく趣を異にしていた。全国人民代表大会(国会)の代表がすわる席は各民族ごとに分れており、それぞれの民族の代表が自民族のことばで同時通訳のこと</p><p class="ql-block">ばを受けることができる設備が各椅子ごとに設けられていた。まるで国際会議を開くときと同じような困難をかかえての運営は大変なことであろうと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">もうひとつ、この大会堂の内でおどろいたのは、五〇〇〇人の人が同時に宴会を開くことのできる大食堂があることであった。これは、国慶節(十月一日、中華人民共和国の成立記念日)のときなどに用いられるものであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大食堂から故宮(旧紫禁城)へと移った。故宮入口の天安門は大会堂の目の前に見えたので歩いて行こうと提案すると通訳の金さんは笑って「いやいや、せっかく車があるんですからー」と、わたしたちを車に押し込んだ。五百メートルぐらいの距離で歩けば十分ほどかかるとのことだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">故宮は天安門からまっすぐ後の神武門にぬけるだけで一キロメートルあった。ゆっくり見物すれば、一週間ぐらいかかりますよなどと通訳の金さんにおどかされながら大急ぎで見物をした。その規模の大きさ、念の入った彫刻、彩画のほどこされた建物、材質、よくもまあこんなに集めたと思われるほどの金銀財宝の山であった。よくもまあこんなに搾取が可能だったなぁーとおどろいた。古代中国人民の苦悩がその黄金の光の陰に宿っているように思われた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その一つ一つはたしかにすばらしい芸術品ばかりなのだが、広州の交易展覧会場で工芸美術品を見たときのようにすなおに感嘆の声をあげることはできない複雑な気持ちだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">神武門を出るころには足が棒のように疲れていた。門をくぐりぬけたとき、車が門前で待っているのを見つけ、ほっとした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">昼食のため、一たんホテルに引き返した。午後からは歴史博物館を見学することになっています」と金さんが言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「ああ、そうですか」とわたしは気のない返事をしてしまった。できることなら午後はゆっくり休みたい気持ちだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「では、午後二時十五分になりましたらお迎えにまいりますから」と金さんは出て行った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">食堂で昼食をとった。食べものの注文がこれ又一苦労であった。いったいどんなものがあるのか、どのくらいの量なのかわからなかった。とにかく、中国語と英語のメニューをとぼしい英語の知識と漢字をたよりにあれこれ指で示しながら注文をした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">食堂には六、七人用のテーブルが数十個おいてあった。その中の一つに腰をかけて待っていたが、二人分の食べものでこのテーブルの上がいっぱいになってしまった。特に弱ったのは、ポタージュ、ライス、パン、麺、ゆで卵といったぐあいの主食類がわんさとならべられてしまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そういえば切符売り場で中国人がなにやらさかんにわたしたちに言っていたが、いっこうに話が通じないので、首をかしげていたが、同じようなものをどうしてこんなに沢山注文するのか?とでも聞いていたのかもしれないと思ったが後の祭りであった。とにかく覚悟を決めて食うことにした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">隣のテーブルにはもう中国に永く滞在しているらしい日本人の母子連れが食事をしていた。末っ子らしい五、六才の女の子が突然大きな声を出した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「お母さん見て見て、あのおじちゃんたちあんなに食べるわよ!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その子の母親は四十才ぐらいの静かな感じの婦人だったが、「そんなことをいうもんじゃありません」</p><p class="ql-block">とこどもをたしなめながら</p><p class="ql-block">「ごめんなさーい」とすまなそうにわたしたちにあやまった。しかし、その表情はやはりどこかおかしさをこらえている表情だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「いいえ、いいです。いいです」とどもりながら答えたが、わたしも、海野君も首すじまでまっかになってしまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">全ては階級教育のために。</p><p class="ql-block">この広大な博物館の中で、わたしたちはひどいショックを受けることとなった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">故宮(紫禁城)の中で見たと同じような旧支配階級が贅沢三昧に使った金銀玉宝のたぐいの陳列物には例外なく当時の支配階級の極悪非道ぶりと人民の受けた苦しみとが解説されていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国ではもっともおくれて(一九五九年に)解放された西蔵についての展示場では、階級闘争の本質をもっとも生々しくあらわしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">片腕を切断された農奴、両手両足を切断された農奴、両眼をえぐりとられた農奴、これらはみな主人に反抗した農奴がみせしめに処罰されたものだった。手枷、首枷をかけられた農奴、若い屈強な農奴は馬のかわりに使われ、主人を肩車にのせて運んでいた。肩の上に乗った主人。手には鞭が握られていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">等身大の写真やホルマリン漬けにされたこれらの農奴たちの表情は、ダライ・ラマを頂上とする奴隷主たちに対する憎しみの激しさを余すところなくあらわしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、手枷、足枷、首柳などの刑具を実際に見たのはこの時がはじめてだった。そのなかでも、両眼をくりぬくための刑具の残酷さは眼をおおいたくなるようなものだった。それは、三尺四方、高さ四尺五寸ほどの大きさで、岩乗な丸太でつくられた檻の上の部分から、ちょうど首だけが出るようになっていた。そのかたわらには厚さ十五センチぐらいの大きな石帽子と大きな掛矢がおいてあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">罪人を檻に入れ、首を出させ、石の帽子をかぶせて掛矢で思い切り石の帽子をなぐりつけると、そのショックで眼が飛び出てくるところを刃物でえぐりとるのだということだった。支配者とは、その支配を維持するためになんと残酷な罰を思いつくものだろう思わず背すじが寒くなった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">こうした残酷さが、はるか昔の話ではなくわずか数年前までそうした社会だったことが不思議な気さえした。わたしたちが強い興味を示したので、通訳の金さんも色々と詳しく説明をしてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、なんといっても強烈な衝撃をうけたのは本館の展示場だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">本館には、国内の王侯貴族や悪徳地主たちが人民に加えた搾取と暴虐のありさまや外国が中国に侵略した歴史などが、さまざまな資料とともに語られていた。学校の体育館十個分ほどのスペースの本館はその七割がたが、近代百年の歴史の展示に費されていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その中で、将介石のうら切り、日本帝国主義の侵略、アメリカ帝国主義の侵略に関する資料と展示物が中国共産党や中国人民の解放闘争のそれと並んで多かった。特に、日本帝国主義の侵略者が中国の農民、労働者に加えた危害の数々ははかり知れないものがあった。南京の大虐殺から、進出企業のあれこれの日本人の私的な迫害まで具体例にはことかかなかった。まったくでたらめな借用証文、デパートの地下に設けられた拷問室、中国人を首まで埋めてその上に糞尿をかける日本人、川岸に数珠つなぎにした中国人の老若男女に向って機関銃を乱射する日本兵。・・・・・・次々に眼に入ってくるこれらの展示物に、わたしはいたたまれず、逃げ出したい気持ちだったが、身を堅くしながらじっと眼をみひらいて、見つづけた。案内人は二十四、五才の女性だった。はじめ彼女の説明の調子はひかえ目で静かだったが、日本帝国主義の侵略のようすを語るころから、声の調子が一段と高くなり口調も早くなってきた。その眼はきーっとわたしたちに向けられ、怒りが込められているようにさえ思われた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「わたしたちは、かつての日本帝国主義者たちとはちがうんだ、社会主義中国を支持し、その建設に役立とうとしてきている人間なのだ」と心に思いながらも、同じ日本人としてかつての同胞が犯したあやまちをつきはなして、他人ごととして受けとめることはできなかった。わたしは、その案内人の女性の視線をまともに受けとめることができず、うつむきかげんにその説明を聞いていた。彼女の説明はかなり長く、熱っぽかったが、通訳の金さんはわたしたちの心情を配慮して、淡々と手短かに、</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「これは、日本帝国主義者が中国人民に対して悪行為の具体的情況です」という通訳をくりか、金さんの通訳はこのように簡単だったし、案内人の中国語の説明は理解できなかったけれども、そこに展示された資料と一つ一つつけられている説明書きはそのわたしにも意味のわかる漢字で綴られていたのくわかった。その内容はまったく眼に痛いものばかりであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">帰り道、金さんが「歴史博物館の本館で、日本帝国主義者が中国人民に対して行った罪悪の数々を説明していた、あの女性の両親は日本兵に生き埋めにされて殺されたのだそうです」と教えてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">なるほど説明は技術だけではないんだなぁ、日本の観光案内人の説明とはやはり意気ごみがちがうー中国の人材配置の正確さはこんなところにもあらわれていたのかー中国は階級教育を非常に重視しているんだなー帰りの車の中であれこれ考えていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">日本人として、わたしたちが過去の日本を背負いながら、この国で新しい国際関係を築きあげていくことはなかなか並大ていのことではないぞと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">不忘階級苦”忘階級闘争"歴史博物館のあちこちにかかげられていたこの二つのスローガンがわたしの頭の中に浮んでは消えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕食は、昼の失敗をくりかえさないために、その日の献立のサンプルが陳列されているものだけを指さしながら注文をした。</p><p class="ql-block">焼き魚、玉子焼き、にんじんとじゃが芋の煮つけ、ライス。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夜はダンスパーティがあると知らされたが行かなかった。</p><p class="ql-block">両親にあてて手紙をかいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">第三日目の見学は北京市北西の郊外にある願和園の見物からはじまった。ここは大きな湖を中心にした、かつての貴族たちの遊興の地であった。湖には一面に氷が張っていたが、何か所か穴があいているらしく、氷と水面の間の空気が水面がゆれるたびに出入りする音がホヒョホヒョホヒョとなにかおびただしい数のあひるでも鳴いているような音をたてていた。湖岸をめぐる石畳を敷きつめた長い廻廊も、船形の大理石の休憩所も、すっかり冷え切っていた。夏ででもあったら船遊びなどに恰好の場所なのだろうが、なにしろ、この日はあまりに風が冷たかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">車に乗り込み、膝をかかえるようにしながらホテルにもどったのは十一時近くだった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>毛沢東の労働参加</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">午後は十三陵と十三陵水庫(ダム)の見学に行った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">車で郊外をしばらく走って陵が近づいてくると、道の両側に象とかライオンなどさまざまな動物の石像が見えてきた。山とよぶよりはまさに陵という名にふさわしい丘につきあたった。その陵の一つが発掘されて、そのまま博物館とされていた。かなり身分の高かった人物が埋葬されているらしくエジプトのピラミッドのような壮大な構築物だった。死体が安置されたあと外からは誰も入れないように、内側から大きな石のつっかえ棒がかかるようになっているところなど、ピラミッドの構造を思わせるものがあった。中国では地下宮とよばれていたが、まさに地下の宮殿であった。中には副葬品が整然と配置されていて、少しもいたんでいなかった。レンガと漆喰で完全防水がほどこされていて、中はほとんど湿っていなかった。中国に伝わる建築技術と科学知識の水準が非常に高かったことはほんとうに驚きだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">十三陵の地下宮からそう遠くないところに十三陵ダあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">新中国になってから、食料増産のために至上命令として、中国特有の人海戦術によって、極めて短期間のうちに完成させられたものだとのことだった。すぐ傍にある山をけずって、その上をほとんど機械を使わず、鍬、スコップ、もっこなどをたよりに運んで堰を築いたものであった。村山貯水池ほどの大きさのように思われた。かなり大きなダムであった。このダムを築く時に、なんとしても完成の時期を遅らせてはならない。工期に遅れれば、収穫が一年遅れるということで、必死のとりくみがなされたが、次々と新しい障碍が出てきて工事は思うようにはかどらず、工事に参加する人々の中にも疲労があらわれてきていた。そうした時、毛沢東をはじめとする幹部たちがバスで激励にかけつけ、短時間だったがともに鍬やスコップを手にもって労働に参加した。これが大きなはげましとなってダムは工期内に無事完成したというエピソードのあるダムであった。この話は案内人によって熱っぽく語られた。話の中には「毛主席の指導」とか「毛主席の教え」ということばがくりかえしくりかえし何度も出てきたが、わたしの頭の中で、そのことばとこのダムの工期内に完成したこととが因果関係をもってはなかなか結びついてこなくて、ある種のとまどいを感じていた。日本人としての生活体験しかもたないわたしには、中国人民にとって、毛沢東がいかに大きな存在かを実感として受けとめるのは困難だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、中国人民にとって毛沢東の存在が、わたしたちの想像を絶する巨大な存在であることは深く思い知らされた。</p><p class="ql-block">このダムをあとにしたのは夕暮れが近づいたころだった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">第三部十五歳の新中国</b></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">发表于いわき文学第三号 1977年</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>大連の朝</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">特急列車が大連駅に静かにすべり込んだのは夜九時近くだった。昨夜九時過ぎに北京駅を出発してから、ほとんど丸一昼夜の汽車の旅からやっと解放されることになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">暖房のきいた車内から一歩タラップを降りると、防寒帽にすっぽりと輪郭をつつまれた、眉の濃い、眼のキラキラと輝いた男の顔がにこやかに近づいてきてがっしりと手を握った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「ごくろうさま。吉沢です」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「鈴木です」と私も強く手を握り返しながら、(ああ、日本人なんだなー)と安心感が湧くのをおぼえた。この、精悍な感じの男が、有名な詩人の土井大助氏だった。しかし、私は当時、土井大助という詩人がいることを知っていなかった。他に数人の日本人が迎えに出てきていたが、防寒帽、編大衣(綿入れのオーバー)、防寒靴にスッポリとつつまれている人々の姿は、どれもこれも一様で、誰が日本人で、だれが中国人なのかさっぱりわからなかった。ホームから連絡橋をわたり、改札口へと移動していく一団の中で、明らかに日本人とわかるのは海野君と私だけだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">十二月中旬に入った大連の夜の寒さはきびしかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">車で十分ほどのところに、私たちの宿舎になる雲山賓館(ホテル)があった。玄関を入るとすぐ右手の広々とした応接室のソファーには、中国側の幹部と先着の日本人たちが十人余り眼をキラキラ輝かせて待っていた。家族づれできている日本人の子どもたちの存在がなんともいえない温いものを感じさせてくれた。海野君と私が中央のソファーに腰をおろすと男の服務員(ホテルの従業員)がきて、テーブルに用意されていたコップの蓋をとり、魔法瓶からお湯をそそいだ。コップの中にはすでにジャスミンティーの葉が入れてあった。そそぎ終るとまた蓋をしてとなりの海野君のところに移っていった。海野君のところでも同じようにした。服務員が次々と同じようにしてお湯をそそいでまわりきったころ、応接室のソファーは三十人ほどの人で殆んどいっぱいになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">コップの蓋をとるとジャスミンティーのいい香りが鼻腔を刺した。葉は殆んど沈んでいて底の方のお湯は薄い茶褐色に染っていたが、薄い半透明のジャスミンの花びらが二、三片浮いていた。私は舌の先で花びらをよけながら、一口呑んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">着いた、とうとう着いてしまったと感じた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちの働く学校の校長以下が応待に出ていて歓迎のあいさつをした。通訳をしたのは学校の職員の阿文という断髪の三七才位の女性であった。彼女の日本語は大変流暢だったし日本人的だった。それもそのはず彼女は正真正銘の日本人だった。戦後日本へ引揚げることができずに、中国に残り、中国人と結婚しているとのことだった。彼女は終戦の時一七才の女学生だったそうである。わたしはそのことを知って衝撃をうけた。ひとつの悲劇を見た気がしたのである。今、新しい中国で意気高く生きているという彼女をこのように見ることは冒になるのかもしれないが......。その夜私はなかなか寝つかれなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一夜明けて、一九六四年十二月十三日午前七時ちょうどに眼をさました。カーテンを手でよけながら窓からガラス越しに外を見ると、もう人々の活動がはじまっていた。私は二重窓を開けた。(中国北部では暖房上窓はみな二重になっている)開かれた窓からは、冬の朝の冷気とともに、街の活気にみちた騒音がとび込んできた。冷気はほてった私の頬に心地よかった。私は深呼吸をした。冷い空気が肺の奥までしみ通った。深呼吸をしながら私はオヤッと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連の朝の空気の中には、かすかだが懐しい臭いがあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">それは石炭の煙の臭いだった。炭抗の町で生れ育った私にはとても懐しい臭いだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">電車の音、子どもたちの叫び声、工場へ出かける工人(労働者)たちの足音、そうしたざわめきを縫うようにして、船の気笛やクレーンのうなる音がかなりはっきりと聞きとれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">港が近いらしい。そうした、さまざまな音が混りあって、ワーンといううなりとなって響いていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「よーし、やるぞ!」私は闘志のようなものが心の底から湧き上ってくるのを感じた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">昼すぎ、海野君とホテル附近の散歩に出かけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ホテルの正面玄関を出てすぐ左手は、なだらかな上りの坂道になっていた。道の左右は赤レンガの労働者住宅街だった。そこをぶらぶら上っていくと綿入れを着た子どもたちが六、七人ばかり、石けりのようなことをしながら遊んでいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">話しかけてみようということになった。海野君は中国へ来る前に少し中国語を勉強してきたとのことだったが使える中国語にはなっていなかった。私は勿論一語も知らない。しかし、なんとか話しかけみようということになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">海野君は勇を鼓して「小孩,来来。(坊や、おいで)」と手招きをした。遊びに夢中になっていた子どもたちは一斉にふりかえり、見なれぬ服装の二人の男をいぶかしげに見上げていたが、そろそろと近寄ってきた。五、六才から十才位までの男の子ばかりだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちもできるかぎり顔をほころばせながら子どもたちに近づいていった。チャンスである。私は海野君の脇腹をつついて「何か話しかけてみろ」と合図をした。「いや、これ以上は話せないんだ」と海野君は当惑していた。そのままでいれば、二人で立ち往生だ。私はとっさに、附近にあった粘土質の小石を拾い上げると、それで、舗装された路上に絵を書きはじめた。耳の立った馬の絵を書いた。子どもたちはさらに近寄ってきて、私の書いている絵をのぞき込んで、口々に「馬」「馬」と言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私は「なるほど、馬のことをマーというんだな」とほくそえみながら、書きつづけた。そして、馬がオナラをしている絵を書きあげ、馬のお尻のところに矢印をつけて「馬屁”と書いて指をさすと、年かさの男の子が大きな声で「馬屁」といった。他の子どもたちも口々に「馬屁」「馬屁」を連発した。子どもたちの中にそれまであった緊張感は、一挙にどこかへふっ飛んでしまった。私と海野君も、なんとなくなごんだ気持ちになった。それから、りんごとか家とか花などの簡単な絵を次々に書いた。そのたびに子どもたちは、それらの名と思われるものを次々と先を競いあって大声で言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">四つ、五っと絵を書いて、次に何を書こうかと迷っていると「早く書け」とか「〇〇の絵を書いてくれ」といって、注文をつけてくるらしい子どもまであらわれた。いつの間にか、子どもたちの数は二十人近くになっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">相手が子どもであることは私たちを大胆にさせていた。子どもたちは勝手に話しかけてくるし、受け答えに窮した私たちは、日本語で話しかけることにした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「きょうは、これまで、また遊びにくるからねぇ」と傍の少年の頭を撫でてやると、それまで蜂の巣をつついたようにさわいでいた子どもたちは、びっくりして、おしゃべりをやめ、私の顔をいぶかしげにのぞき込んだ。私はもう一度、大きな声で、ゆっくりと、「きょうは、これでおしまい。また遊びにくるからねぇー」といって後ずさりしながら手を振ってみせた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">正面にいた、眼のクリクリッとした少年が妙なアクセントで「マダ、アスビクルガラネー」と私の口まねをした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">すると子どもたちはどっと笑って、クモの子を散らすようにとび退いて、その勢いで走り出した。二、三人残った子どもたちも後につづいた。子どもたちは「再見」(さようなら)「マダ、アスビクルガラネー」などと叫びながら、もつれ合うようにして、路地に吸い込まれるように入っていった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちは、その後姿に向って、熱い手をふりながら、いつまでも見送っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">帰り道、私たちは何か大きな収穫を得たような胸のふくらみを覚えていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">海野君は「よく絵を書くことを思いついたなー」と感心して言った。私は「絵は万国共通語」とすまして答えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">実は中学一年生の時だったかの国語の教科書に、金田一京助博士がカラフトにアイヌ語の研究のためはじめて行ったとき、絵をたよりに「何?」ということばを引き出した経験があるということが載っていたのを思い出していたのだが、そのことは海野君には話さなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「どこの国でも子どもは同じだよなあー」</p><p class="ql-block">二人はしみじみ話しながらホテルへもどった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夜旅大市人民委員会主催の歓迎会が開かれた。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">1964年大連日語専門学校中国人教師</p> <p class="ql-block">大連到着四日後から仕事がはじまった。当時発足間もない日語専科学校の日本語教師である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">初出勤の朝、私は六時に眼を覚した。食堂で、稀飯(粥)を主食とする朝食をすませると用意された車でホテルを出た。車は時速四十キロほどのゆるいスピードで走った。車は市の中心街に入り、大連駅前を通りぬけた。大連の駅前からは、しばらく、市街電車の線路に沿って走った。アカシアやポプラ、柳の街路間はみなすっ裸だった。巾広い道路の両側は赤いレンガの塀と灰色の建物でうずまっていた。一点の緑色もない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">市街地を五~六キロも走りぬけると急に視野が展けてきた。右手は工場郡、左手は海岸へと続く丘陵地、すっかり凍りついて、流れがもりあがった氷のかたまりになっている小さな川を越していった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">工人(労働者)を満載にしたバスやトラックが何台も走りぬけて行く。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ロバに引かせた荷車が引っきりなしに通る。積荷はほとんど石炭だった。ロバは反対側から来るロバとすれちがうたびに「オーォ」と鳴いてあいさつをかわしている。</p><p class="ql-block">ロバたちの吐く息は一様に白く、口のまわりのひげが凍っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">海がぐうーっと近づいてきた。ゆるい砂浜がつづく。同乗していた先着の日本人関根さんが「ここは星海公園といって、日本が侵略していたころには星ヶ浦とよんでいた海水浴場だ」と説明してくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">星海公園から数キロ走って、私たちは学校に着いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">教務室で、しばらく数学についての説明をうけた。学生達の日本語の程度や出身、どんな方法で学習しているか、などである。学科の中には政治学習というのがあった。これは非常に重視されていることがその説明でわかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">教務長は「鈴木先生には第三班と第四班の会話を担当してもらいたいのですが、いかがですか?」と一応同意を求めてきた。私に異存はなかった。とにかく、一分も早く私の学生たちの顔を見たかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">教務長は潜と言った。彼は非常にかん高い、よくようのある中国語で話した。色白で、五十才にちょっと間のある太った男だったが、ほとんど自髪に近かった。広い額、肉付きのいい高い鼻、うっすらと桃色がかった血色のよい顔色、ゆったりとした雰囲気のある漢民族の典型的な人物であったが、やや受け口で、小心らしく見受けられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼は私たちの話す日本番はほとんどわかるらしく、通訳される前に、うなずきながら聞いていた。そして時々、小さな声の日本語で、遠慮がちに「オチャをのんでください。イイデスョーン」、「鈴木先生は若いですネー」などと言ったりした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">郭という三十五~六の女教師に教室へ案内された。第三班である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">教室のドアを開けると、学生たちの体臭と建物の臭いが混じって、私の鼻腔にひろがった。そこには、男女合わせて二十五人ほどの学生たちがいた。それぞれの顔はちょっとはにかみながら、しかしその眼は期待に満ちてかがやいていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">なんと美しい眼を持った若者たちなのだろう。私も思わず顔がほころんでくるのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">郭先生は、「おはようございます」とあいさつをかわしたあと、学生たちに、私を日本語で紹介した。学生たちにわかりにくいことばは、ペラペラと中国語で説明しながら紹介をした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">つづいて、わたしがあいさつをした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">まず、黒板に大きく自分の姓名を書いた。鈴木博。すると学生達の間に「リンム、ボ」「リンム、ボ」「スズキ」などというささやきが起った。そこで私は博の下に土をつけた。すると彼らはドッと笑った。漢字で書けば意味はよくわかる彼らなのであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私はつづいて、日本の地図を書いた。北海道、本州、四国、九州と書き込み、さらに東京、大阪などと記入したが、彼らはほとんど知っているらしく私が記入するとすぐ、中国語だったが、反応を示した。そして東京の少し北に、私の出身地の福島県を書いてみたが、学生たちがほとんどそれを知っていたことは意外だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">班長(学級委員長)の唐玉金という女子学生がクラスを代表して歓迎のあいさつをした。勿論、中国語で、郭先生の通訳つきである。実に堂々としたあいさつであったのには舌をまいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">こうして、学生たちとわたしとのふれあいははじまったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">仕事がはじまると、また、別の緊張感が体にみなぎってきた。目の前にやらねばならないことがあるということは、なんといいことだろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この学校では、北京大学の日本語学科で使っている教科書にちょっと手を加えたものをテキストに使っていた。しかし、このテキストはことばのテキストとしては最良のものとは言えなかった。第一、実状にあわない内容のものが多かった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学生の大部分は北京に行ったことがなかった。彼らのほとんどは、遼寧省か、黒龍江省、吉林省の出身者であった。いわば東北の田舎の出身者のあつまりである。だから、北京へ行ったことがある者など、ごくわずかしかいないのだった。大連は北京から列車で千三百キロも離れている。北京は彼らにとって単にあこがれの首都であるばかりでなく、愛する祖国中華人民共和国の誇り高い革命の象徴でもあった。そして、その北京は彼らの意識の中で敬愛する領袖毛沢東首席や劉少奇首席のいる首都ーという意味を失うことはなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">だから、私が北京を通ってきた、そして二、三日滞在してきたと話したときに、学生たちは一様に深い羨望の眼差しで私を見て、ため息さえついた。そして、幼稚な日本語で「先生はしあわせです」と私に言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らにとって、祖国とか首都北京、毛沢東とか劉少奇などの存在がいかに深く重いものであるかは私たちの想像を絶するものであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、彼らは実際には北京に行ったことさえない。そして、テキストに出てくる文や会話の舞台はほとんど北京であったから、イメージ化がむずかしく、なかなか言語として定着しにくかった。しかも、各潤高い政合論文が多くとり入れられていたので、日常的な会話には不向きのものが多かった。学生たちは政治的なことに関しては、えらく立派な日本語を話すことができたが、日常的な会話はあまり得手ではなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連の実状に合った、しかも、日本語会話に適した、独自のテキストを作っていくことも私たちの仕事になった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>中国人気質</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">中国語を話せない私は、中国語の会話の勉強をはじめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">先生はホテルの服務員である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕食が終ってからしばらくすると、彼らも少しひまになる。そのころをみはからって服務員室に遊びにいくのである。私はほとんど毎日のように遊びにいった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わずかに覚えた一語か二語をたよりに、大方は漢字を書いて質問をした。相手が返答するのを注意深く聴いて音の練習をした。同じ中国人でも、先生に向いているのも、そうでないものもあった。彼ら中国人の中にも、いろいろななまりやなんかがあって、ひどい発音をしているものもあるらしい。彼らはえらい早口で言いあいをする。論争が高じてくると、声の調子が一オクターブほど上がる。頭のてっぺんから出す裏声のような調子になる。これは彼らが言い</p><p class="ql-block">あいで興奮しているときの特徴である。生徒の私は放っておかれて、彼らの議論は果てしなくつづくのであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">こうして三ヶ月ほどして私は日常会話にはほとんど不自由しなくなった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私の主な先生になったのは候春蓮という十八才の女子服務員だった。彼女は肉づきのいい体の上に満月のような顔をのせていた。彼女は、いつも二つ編みにした髪を腰のところまでゆらゆらさせていて、きれいな声で歌をうたいながらお茶をくんだり、拭き掃除の仕事をゆったりとしていた。彼女の発音ははっきりとしていて聞きよかった。さらに彼女は表情豊かに表現してくれたので、他のどの中国人から教わるよりも、中国語を理解しやすかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連到着後、二週間ほどしたある日、街へ買物に出かけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連駅前の繁華街を歩いていると、通りすがりの四十才ぐらいの男がやにわに私の着ているカーデガンの袖をつかんだ。私はびっくりして立ちどまった。その中国人はペラペラと何かしゃべったが、もとより私に通じるはずがない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、よく注意して聞いてみると、どうやら私の着ているカーデガンが気に入ったらしく、「どこで買ったのだ」と聞いているらしかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私がそのとき着ていたカーデガンは鬼毛糸で編んだ日本製の品だった。「日本で買ったものだ」と言いたかったのだがことばがわからない。私はとっさに秋林百貨公司(秋林百貨店=もとの三越百貨店)をゆびさした。男はやっと、私のカーデガンから手を離した。私の額には汗がにじんでいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国人は一般的に好奇心が強いようだ。デパートなどで買物をしていてよくそう感じることがある。ズボンなど衣類を買うのに品定めをしていると、自分のつかまえているものを脇からさっと取られてしまうことがある。こちらが目下その衣類の品定め中であるのにそんなことにはとんとおかまいなしに”ひったくられる”といった感じだ。これはなにも特売場でのはなしではない。日本では、デパートの特売場でしか見られない光景である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">衣服売場で、あの色にしようか、この色にしようかと、衣類の選択をしているとたちまち十人も、多いときには二十人もの人垣ができて身動きすらできないようになってしまう。そして、「赤がいい」とか「青はだめだ」「この色にしろ」とかそれはそれは賑やかになる。中国の民衆は大変おせっかいやさんでもあるようだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">だが、自らそれらを買い求める人は少なかった。彼らにとって新しい衣服を買うということは、何か特別な行事でさえあった。彼らは衣類に限らず品物を非常に大切にした。工人服(労働着)や綿入れなどは、幾重にもつぎがあてられて、原形をほとんど残さぬものを大切に、しかも堂々と着ていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしの中国語の先生であるホテルの服務員の候春蓮は、一ヶ月二十八元の賃金であった。わたしたちが買う衣服は一着十元〜四十元もするものであったことから考えてみても、彼らがめったに衣服を買わないし、買うということは大変なことだったことがわかる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らの眼に、わたしたちは羨望のまとであったろうし、また、なんとぜいたくな存在として映ったことだろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その時、わたしは二十六才で、月に三百四十元の賃金を大学から支給されていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">生活感覚、習慣のちがいというものはわたしたちの想像を超えるものがあった。あるときはいささかこっけいであったり、あるときは、粛然とさせられるものであったりした。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>よっちゃんのアメ玉</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">1964年大連日語専門学校にて</p> <p class="ql-block">わたしたちの後を追うようにして、大連に着いた玉村という親子四人家族があった。夫婦と子供二人で、子どもは二人とも男の子だった。上の子は七才、下の子は三才ぐらいで、横助といった。禎ちゃんは、たどたどしい京都弁がとても可愛らしかった。わたしは、この禎ちゃんとよく遊んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ある日の夕方、わたしはホテルの廊下でちゃんと遊んでいた。禎ちゃんはアメ玉をしゃぶっていたが、なにかのはずみで、そのアメ玉を口から落してしまった。アメ玉は廊下に落ちて二度ほどはずんで止った。彼は、それを拾って、また口に入れようとした。わたしはあわてて、それをとりあげると、「あ、だめだめ、これはきたないから、捨てましょうね」といって、それをクズ篭の中へ放り込んでしまった。すると、すぐ側からカン高い中国語が飛んできた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「不好!洗一洗就可以吃吐!(いけない!洗えば食べられますよ!)」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そこには、女子服務員の同志が立っていた。彼女は細面の美人で二十九才、背が高かった。彼女はまだ独身だったが、他の女子服務員とちがって髪はパーマをかけていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼女のきりっとしまった顔はややまゆを寄せながら、わたしをまっすぐに見ていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは大変はずかしいことをしてしまった。首までまっ赤になってしまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「対不起。(すみません)」とは言ったがどうしてよいかわからない。つぎにわたしがやるべきことがなんなのか判断「対不起(すみません)」とは言ったがどうしてよいかわからない。つぎにわたしがやるべきことがなんなのか判断に迷った。クズ篭からまたアメ玉を拾いあげて、洗って禎ちゃんにやるべきなのかどうか。もし同志(マーさん)がそうしろといったらどうしよう。わたしはすっかり当惑して、立往生してしまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼女は、また「洗一洗就可以吃」と言った。そして、長々と節約論を打たれた。わたしは「対」「対」「是的」</p><p class="ql-block">(はい。はい。その通りです。とかしこまって話を聞くばかりであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、さすがに彼女も、クズ篭から拾って食べろとはいわなかった。</p><p class="ql-block">好不好?好阿?(どうですか?いいですね!」と、んざんな説教のあげくに念を押されて、わたしは無罪放となったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">正直、わたしはほっとした。もし洗って食べさせろとでいわれていたら、対中国人との関係から言って、断わるともできなかったろうし、かといって、クズ篭から拾いしたものを洗って食べさせるということは、わたしの感がとても承服しそうになかったからである。彼女にそうろといわれるのではないかと、わたしは半ば恐怖感さえ覚えていたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">日本での消費生活に慣れきっていたわたしは、物をそまつに扱うことが平気になっていたことを深く反省させられ、恥しく思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、無事放免されたその時は安堵感の方が強く、恥しさの方は時が経つにつれて深くなっていった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>股割れズボンの幼児たち</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">暮れから新年にかけては三日間の休みがあるだけだった。それも、わたしたち、日本人教師には特別に与えられたものであったらしい。劉校長は「必要でしたらもっと休まれても結構ですよ」と言ってくれたが、とても休むわけにはいかないし、まして、中国にいては特にその必要もなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一九六五年一月二日、新年の大連は寒さがきびしかったが、日中はおだやかな日和だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちのホテルの正面から、ゆるい坂道を二、三百メートル上ったところにある中山広場に出かけた。(中国には中山とよばれる広場や公園が多い。民主主義革命の指導者、孫文の号中山の名を冠したものである)この広場は直径二百メートルほどの円形をなしていた。その中心には直径十メートルほどの噴水池があり、そのふちは厚さ五十センチほどで、地面より五、六十センチ高く作られていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">池の水は、もちろん、ぶ厚い氷でおおわれていた。広場の周囲に巾三十メートルほどの道路を残して種々の樹木が植えられており、あちこちに木のベンチがあって市民の憩う公園となっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この日も、綿衣(綿入れ)や綿大衣(綿入れのオーバー)、防寒帽に身をつつんだ老人たちが、ひなたぼっこにきていた。幼い子どもたちもたくさん遊びにきていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">子どもたちは大声で叫びながら、池の氷すべりをしたり、コンクリートのふちによじのぼったりして遊んでいた。中には大人につれられた、二~三才の幼児もいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、その子どもたちが尻をまる見えにして遊んでいるのを見てびっくりした。手をふれるのもつらい、冷いコンクリートの上に直にお尻をつけて、ごそごそと動きまわっているその子たちのかわいいわれめについている男の子のものなぞは、寒さのために青黒い斑になって、ふるえながらちぢこまっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国では古くから、男の子も女の子も、五~六才まではの割れたズボンで育てられているのだ。幼いものたちが由にはいまわり歩きまわって、したいときには腰をかがのさえすればズボンは美事に左右に割れて、衣服をよごす」となくいつでも用便ができるようになっているのだ。彼らのその部分はわたしたちの顔や手の皮膚と同じように強くなっているようだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「さしつかえないものだなぁー」と感心させられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは身振いを一つした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連など地方都市ではそう多くない四~五階建ての大きなビルが、この広場を囲むようにして立ち並んでいた。中国人民銀行、農業銀行、文化具楽部(公会堂)、ひときわ高く豪華な大連賓館(ホテル=旧日本軍が侵略していたころは、大和ホテルとよばれていたそうだ)などが官公庁とともに並んでいた。日本の満州侵略時代の軍事、経済、行政の中枢機構がここにあって、にらみをきかせていたことが、今でもはっきりと見てとれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">広場からは放射状に八方に道路が走っていた。陽は明るく照らしていたが、植えられている木はほとんど落葉間だったし、わずかばかりの常緑も、この真冬色彩は灰色に近かった。四囲は高くそびえる南山まで、灰色一色であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">緑が無性に恋しかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">数日経ったある日、午前中の授業をおえてホテルに帰ったわたしは駅前商店街に次ぐ、大連第二の繁華街、天津街へと買物に出かけた。天津街百貨店をめざして歩いていると、綿衣(わたいれ)、綿様孔(わたいれズボン)を着こんだ老人たちが四、五人石畳の歩道の上にどっかりとすわり込んでなにかをしていた。立ちどまってのぞき込むと、石畳の上にマス目を書き、そこに、二種類の色のちがった石ころを駒替りにならべて、はさみ将棋の真最中だった。一方の老人の駒はもう三つしか残っていなかったが負けそうになると必ず待ったをかけるので、なかなか勝負がつかないでいた。勝負に強い執着心を持つ、こうした老人たちに会うことはとても楽しいものだった。わたしも、しばらく立ち止まって観戦に及んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしが観戦していると、間もなく新たな観戦者があらわれた。肥え桶を天料棒で担いだ五十ちょっと前の男だった。彼はダラ桶を担いだまま路上の戦いをのぞき込んできた。彼が左右に首を振りながら街の方を眺めまわすたびに桶は左右にゆれて、桶についている汚物が将棋を差している老人たちの衣服に触れたりしたが、誰もそんなことには一向頓着ないようだった。わたしは、その寛大さにはしゃっぽを脱いだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、肥え桶の洗礼を受けることを恐れて早々にその場を立ち去った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">天津街百貨店はかなり大きな百貨店であった。一階では衣料品や靴などを売っていた。二階では文房具や電気製品、地下では魔法瓶や自転車、食料品などを売っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしはここで、タオルや石鹸、ハミガキ粉などを買った。帰り道小さな店で甘栗をしこたま買い込んできた。途中、写真店も見つけておいた。その写真店は公私合営の看板が出ていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">二月の半ば、日曜に学校に行ってもよいという許可が出た。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">家族もちはともかく、わたしたち数人の独身者にとって日曜日ほどつまらないものはなかった。それで、以前から、日曜日に学生たちのいる寄宿舎に遊びに行きたいといっていたのだが、中国側では、くらしっぷりのちがう日本人と学生を教室の授業以外で私的に接触させることには難色を示していたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちはよろこび勇んで、学校へと出かけた。しかし、寄宿舎へは案内されず、数人の学生たちと教室で雑談することになった。彼らはわたしに、いろいろな質問をした。家族のこと、日本でのくらしのこと、政治情況など次々聞いてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「先生の家族は大丈夫ですか。反動派に殺される心配はないか?」と李君がきいた。わたしは、とまどいを感じた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、日本にいたとき、教員組合の活動をしたり、労演の活動、党活動などをしていたが、そのためにアカよばわりされてはいたものの、そのために直接生命の危険を感じるというようなことはなかったし、まして、家族が逮捕されるななどということは考えもおよばないことだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らは、日本の現状をほとんど知っていなかった。彼らの認識の中にある日本は、解放前の中国と同じような情況としてあった。高度に発達した資本主義社会の中にある一般国民大衆の生活程度や国民の権利の度あいなどについてはまったく無知に近かった。日本の労働者の多くが、自家用車を持ち、カラーテレビを持っている、というわたしの話を彼らは肩じることができないようだった。彼らにとって、社会主義社会になっていない、つまり、いまだ解放されていないということは、政治、経済、文化、あらゆる分野でその情況は一九四九年の解放前の中国と似たような情況であることを意味していた。彼らが受けた教育は、解放前の国民の受けたさまざまな苦しみと、解放後の国民の地位の向上であり、社会主義の優越性であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">だから、未解放の日本の労働者階級が、自家用車を持ち、カラーテレビをみているということは理解しがたい現象なのであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国の一般国民は、諸外国の具体的な情況についてほとんど知る機会を持っていなかったようである。したがって李君の質問の根底にある、日本の情勢に対するあやまった認識というものは、中国の国民一般のものであると見てよかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その後、学校では、わたしたちの提唱によって、日本の実情を中国の学生たちに教えることを考えていったが、彼らの理解はなかなかに進まないようであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">(社会主義国家(まったくすぐれた社会制度である)の優越性を図式的に認識しているこのことが、やがて文化大革命の時期にそのあやまりを大きくしていくのだが、そのことについては後段にゆずることにする)</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>大連の春</b></p><p class="ql-block"><b><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">大連教師時代 お気に入りの教え子?と</p><p class="ql-block">1964年</p> <p class="ql-block">寒い日がつづいていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連の春はまだまだ遠い日に思われていた四月初旬のある日、わたしは朝八時にホテルを車で出発し、いつものように学校へと向った。車は時速四十キロほどのゆっくりとしたスピードで走る。中山広場を通り抜け、大連駅前広場を通りすぎ、北京街を電車線に沿って走る。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">両側の街並は灰色のコンクリートと赤レンガばかりがつづき、街路間も葉をつけていない木ばかりである。体育場(スタジアム)のコンクリートの色を左手に見ながら進む車のフロントガラスを通して、わたしは見るとはなしに見なれた景色を眺めていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この道を同じようにして通りはじめてからすでに四ヶ月になろうとしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「オヤッ?」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしはこの見なれた景色になにか異変が起っているのを感じた。その異変がなんなのかわたしにはわからなかったが、わたしの眼に映る景色はたしかにいままでのそれとちがうものに感じられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは身をのり出し、フロントガラスから前方の景色を注視した。いつもの景色がいつものように左右に流れていく。わたしはなおも、その異変がなんであるかを見きわめようと眼を見開き眺めつづけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">景色を眺めつづけるわたしの眼をさえぎるなにかうすーい、うすいベールのようなものがあるのを感じた。しかし、それがいったいなんなのか、また、ほんとうにそれがあるのかどうかさえも確がもてないほどに淡いあわーい他の光だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">次の日の朝、同じ道を通りながら、その色がさらにはっきりしてきたのに気がついた。それは、淡い淡いグリーンのベールのようだった。そして、そのグリーンのベールは次の日の朝、同じ道を通りながら、その色がさらにはっきりしてきたのに気がついた。それは、淡い淡いグリーンのベールのようだった。そして、そのグリーンのベールは風が吹くたびにさーっとゆれうごいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは思わず「あっ」と小さな声をたてた。それは街路として植えられている柳の細い技先から、あわい黄緑の新芽が数千条の糸のように、地上すれすれになるまで伸びていた。その淡緑色が薄いベールとなってわたしの眼に映っていたのだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「春だ!春が来たのだ!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ふと見ると今しも通りすぎようとしている赤いレンガ塀の上から、あざやかな黄色の花をびっしりとつけた迎春花が一枝、道路に向ってすーっと差しかけていた。気をつけてみると、道々のあの塀、この塀から、迎春花が一枝、二枝勢いよくのぞいていた。わたしは心がはずんでくるのをおさえることができなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その週末、中山公園に出かけてみると、そこはもう春がいっぱいだった。広場の木々はつやのある緑の葉をつけ、迎春花、桜、桃、梅が吹き出したように一斉に花開いていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ふり仰いでみると南山もいつしか春のよそおいをしていた。あたり一面に春の陽光が跳びはねていた。長い間、寒さにおさえられていた北国の春は、一ぺんに地面から吹きや出してくる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしはこの時ほど春の訪れを感動をもって受けとめことはなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月二日分更新済み</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">第四部 社会主義中国その光と影</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">发表于いわき文学第四号 1979年</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;">最初の失敗</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 18px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">大連について一ヶ月ほどしたある日のこと、私たちより1ヶ月ほど早く大連に来ていた鏑木さんが、おもしろいところがあるので二人で行ってみようというので出かけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">電車にのって二十分程してある海岸についた。かなり大きな入江である。二人はカメラで写真撮影をはじめた。すると海岸の中央部にあった解放軍の監視所から、二人の解放軍兵士がわたしたちに近づいてきて、何か話しかけてきた。何をきかれたのかさっぱりわからなかった。鏑木さんは、「カメラで海岸線の方を撮影してはいけないといっているのではないか。この辺は、軍事上の機密の多い所だそうだから」と私に言った。そして、彼は自ら監視所のところに歩いていき、そこにカメラを置いて一回以?」(これよいか?)と聞いた。カメラをここにあずかってもらえばこの辺を見て歩いてもよいか?という精一ぱいの表現でる。しかし、兵士たちは首を縦には振らなかった。どうても、お互いに通じあえない。私は中国語が一語も話せいから、鏑木さんにやりとりをまかせておくほかはなかた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">言葉も通じない、服装もちがう二人の男がカメラを持って海岸線を撮影している。スパイか何かのけん疑をうけているらしかった。鏑木さんは「大連日専」(大連日語専科学校)と苦労しながら発音したが通じないので、文字を書いて示した。「大連日専教師」。兵士たちは迷っていたが、それ以上その場でとがめることはしなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">カメラを置いていってもだめだというので、しかたなく、カメラをまた肩にぶらさげて、ぶらぶら歩いていた。しかし、もう、あえて海岸線を撮影する勇気はなかった。三十分ほどして、そろそろ帰ろうとしていると、一台ジープがやってきて、それにおしこまれた。わたしたちは丁重にホテルに送り届けられてしまったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夜、ホテルで、わたしたち二人の行為は、他の日本人から、さんざんにむぼうを責められた。翌日学校に行った。学校の幹部たちは、そのことには一言もふれなかったが、その眼はなんとなく笑っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私は一週間ほどは、おとなしくしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>博愛市場</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連駅からそう遠くない北京街の裏にあたる一角に「博愛市場」がある。ここは旧社会の時代には「ドロボー市」とよばれていたとのことだった。ある日曜日、先着の日本人阿部さんの案内で五人ほどで出かけた。古びた平屋にカギ形にかこまれた三百年ほどの広場である。そこでは他々なものが売られていた。中古の衣服。皮製品。中には海辺で採ってきた小つぶの巻貝をバケツに入れて売っている少年もいた。客がそれをコップに一杯ずつ買っては、その場で口にほうり込み、前歯でカリッカリッと割って食べていた。手を使わずに殻だけをぺっとはきだす。実に見事な技術である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"> 一人の老人がしゃがみ込んでいる前に何やら赤さびた鉄片がおいてある。何だろうと近よってよくみると、どうやらそれはペンチのかたわれである。こんなものが本当に売れるのであろうか?さすがに、私の見てる間に買手はつかなかった。その老人は辛抱強く買手がつくのを待っていた。</p><p class="ql-block"> </p><p class="ql-block">その傍に、十才ぐらいの男の子が、水を張ったバケツを前にしてじっと客を待っていた。何を売っているのかと水の中をのぞいたが何も入っていない。私はいぶかってきいてみた。「你賣什公?」(君、何を売っているの?)「魚児」(魚だ)。少年はぶっきらぼうに答えた。よくよく眼をこらしてみると、あっ、いたいた、細いちっちゃなメダカのような魚が数匹動いていた。なるほどこんなものまで売っているのか。参考のため値段を聞いてみた。「多少銭?」(いくら?)。少年は右手の指を二本つきたてかかったが、あわてて三本にして、「三分」(三銭)といった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">広場のほぼ中央に一枚の筵をしいて、六十才ほどの老婆が店を出していた。頭に布を巻きつけ、耳飾りをつけ、足をしていた。着ているものも新しくはないが上等のものである。おそらく、旧社会の地主の奥さんででもあったのだろう。その老婆は、筵の真ん中にあぐらをかいて、右手にはコヨリ綴じの魯迅全集をおき、正面には浅いボール箱を二つおいて、一方には銀貨などの古銭、もう一つには、メノウ、ルビー、水晶などの宝石類やボタンなどがざくざくと入れてあった。魯迅全集の値段を見ると、三十元とついていた。手持のお金は十元足らずだったので、ほしいと思ったがあきらめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その傍で、幼い姉弟が売っていた行うさぎを一対、手籠つきて四角(四〇銭)で買った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">昼近く、もうそろそろ帰ろうかと思っているところへ、同行の玉村さんが顔色を変えてやってきて「阿部さんが管理事務所につれていかれた」と伝えた。急いで広場をカギの手に曲っていくと左手に管理事務所の看板が出ていた。薄暗い事務所の中をのぞくと、阿部さんが三、四人の男から何かきかれて、わずか数語の中国語を使って答えているところだった。かけつけてみたものの、ことばの不自由なわたしたちにはどうするすべもなく、ただなりゆきを見守っているだけだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">やがて阿部さんが釈放され、一同ほっとして帰った。ことばの通じにくい外国にあっては、この種のアクシデントは、とかく起こりやすいものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ホテルには、日本人教師たちのために、会議室兼娯楽室として一室がとってあった。その夜、夕食後のひととき、誰からともなくその部屋に集ってきた。博愛市場に行ったものたちは、それぞれ収穫物の披露に及んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">阿部さんは十数件の買物をしてきていた。中でも、直径三センチぐらいのコインを二枚見せて「これは、たいしたものだ」と自讃していた。二元ほどで買ったとか言っていたが、これは、例の老婆の宝石箱の隣の箱の中にあったものだそうだ。私も「ほうー」と感心はしてみせたが、脳裏をかすめたのは、あのコヨリ綴じの迅全集の方であった。</p><p class="ql-block">ほしかった。ほんとうにほしかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">(二年余り後のことだが、帰国した阿部さんが専門家の鑑定をうけたところ、このコインは、ギリシャの古い銀貨で、世界にも数枚しか現存せず、時価=一九六六年=八百万円ほどすることがわかったと聞いている)</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私の買ってきた兎はホテルの中にもち込むのはこまるということで、なかなか許可がおりなかった。「衛生不好」(衛生上よろしくない)ということである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">最終的には、服務員が屋上に小屋を作ってくれて、そこでならまあいいだろうということになったが、日本人教師たちには浅慮をせめられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私が兎を飼いはじめたことを知った学生たちが青菜を運んできてくれたりして応援してくれたが、この兎は二羽とも旬日を経ずしてのら猫の爪に倒されてしまった。私は深、落胆した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学校の教室で兎の死を学生たちに告げた時私は思わず涙くんでいた。学生たちはいたく同情の念を表わした。「老師、寂寞」(先生は寂しいんだ)という中国語のささやきがきこえてきた。この時の私は、祖国や母親を遠く離れてひとり異国にくらす、孤独な少年のように、学生たちには映ったのであろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">澄んだ瞳の心根のやさしい学生たちばかりであった。彼りは私を身内のように愛し、私も彼らが大好きであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>どう、この脚?</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私も中国語をかなり話せるようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月中旬、そろそろ夏物のサンダルでも買おうと、天津街百貨公司に出かけた。</p><p class="ql-block">百貨店一階の一番奥にある靴売場のショーウィンドウに顔をよせながら手ごろなものを物色していると、突然、私の眼の前に、白い形のいい脚がスーッと伸びてきた「好科好?」(どう!いいかしら?)と若い女性の声が、うつむきかげんにショーウィンドウをのぞいていた私の後頭部のあたりで言った。美事な脚線美だ。二十四、五才ほどのこの細面の美人が太もものつけ根まで惜し気もなくめくりあげて</p><p class="ql-block">(花柄の下ばきまで見える)「好不好?」と問うているのだ。</p><p class="ql-block">「不好」(よくない)はずはない、「好」(いい)にきまっている、と私は思った。突然のことなので私はやや度を失っていたようである。実はこの女性が問うていたのは脚線美の如何ではなく、試し履きした靴がいいかどうかを店員に問うていたのであった。それにしても、ああまで大胆にー。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ここで私は、一週間前の日曜日女子学生の寮を訪れたときのことを思い出した。学生達にとっても日曜日は、たまった洗濯の日でもある。寮内には色とりどりの下着が干してあった。その万国旗の下をくぐりぬけながら、目指す、わがクラスの同学們(級友たち)の部屋へとたどりついた。</p><p class="ql-block">女子学生たちは、ワァワァ大騒ぎしながら、洗濯物をかたずけたり、上衣をはおったりして、「先生、ヨクイラッシャイマシタネ」「ドーゾ、ドーゾ」「先生はヨクイラッシャイマシタカラ、タイヘンヨロコビマシタ」などと教室の会話の練習さながらの歓迎のあいさつをうけた。色々と楽しいおしゃべりをしているうちに、劉紫芬が私の足もとを指して、「これは、くつしたといいますね、いいですか?」と聞いた。その時私は日本からもっていったナイロンのクッをはいていた。私は「そうです、クツ下です」と答えた。</p><p class="ql-block">そして「このクツ下は何でできていますか?」と書いてみた。学生たちは誰も答えられなかった。私は「これは、ナイロンのクッ下です」といって左足のクッ下を脱いでみせた。女子学生たちは「哎呀!」(あらぁ)と言って両手で顔を覆った。身をよじって逃げ出すものもいる。はじめ私にはなんのことかわからなかった。やがて、私の素足(つまり異性の素足である)を見て恥ずかしがっていることを知った。太った彰玉雲が、騒いでいる級友たちをたしなめながら「そんなことはなんでもありません、古い習慣です。今は、カマワナイ!」とカマワナイの語尾を強く上げながら言った。</p><p class="ql-block">中国では足首から先を他人に見せない習慣があったのだ。</p><p class="ql-block">「今は、カマワナイ」といいつつ、感覚的にはまだ超えられない血肉となっている。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">日本では、異性の前で素足を見せても何のこともないが、中国ではタブーなのだ。それでいて、太ももは、下ばきが見えるまでまくってみせても平気なのだった。海一つへだてて、人情に基本的な変りはないにしても、よって来た歴史、風俗、習慣のちがいを今さらのように感じさせられたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>社会主義好</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月も半ばをすぎると、街路間が青々と茂り、木陰と日当りの境が、舗装道路にくっきりと浮かぶ日が続くようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちがちょっと街へ買物に行くにも車で送られ、通訳がつく。通訳がついていると、買物一つしても、私たちは外賓としての特別待遇をうけていたし、通訳がついていなくても、服装がちがうと外賓としての扱いをうけた。われわれ日本人教師が立ち寄る主な商店などには市当局から通達が出されていたようである。私たちはどこへ行っても外国人としての特別扱いをうけていて、中国の人たちとなかなか、対等のおつきあいができないじれったさを感じていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私は、工人服(労働者の作業服)と工人帽を買い込み、それを身につけて、そっと街へ出てみることにした。顔形はもともと中国人そっくりの日本人である。なかでも、私は中国人によく以ていた。あとは会話だけである。私は五ヶ月の間に日常会話はなんとか話せるぐらいになっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月下旬の晴れた日曜日、すっかり中国人になりすました私は多少心はずませながら、電車にとび乗った。行く先は大連駅前である。そこからは秋林百貨公司(九三越デパート)も大連市場も近い。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">若い女性の車掌が大きなバックを前に吊り下げて、乗客を押しわけながら近づいてきた。「買票了?」(キップは買いましたか?)私はポケットに手をやってはっとした。財布がないのである。新しい工人服に着替えてきたので忘れてきてしまったのだった。私は首すじが赤くなってくるのを感じながら「哎呀 没带钱包了!」「あらら、財布を持たないできてしまった)と言うと、その女性車掌は、「没関係、下次上车时候,买两张吧(いいです、次に乗ったときこ枚買ってくださいね)と言って通りすぎていってしまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私が中学校の教師を辞めて、中国へ行くということを家族に伝えたとき、父親は大反対だった。父は戦時中、五年間ほど中国の山西省の炭鉱で働いていたので、中国のことについては知識があった。「あんな、貧乏人とドロボーの国へ、学校をやめてまで、なんで行かねばならないのだ」と父は言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「それは社会主義社会になる前の中国で、今はちがう・・・」という私と論争になったが、私にしても中国の実態について、さほど説得力のある話もできなかったし、それほど自分の主張に確信があったわけではなかった。勢い、私の頭の中にある中国民衆のあり様は、二階の窓のカギをしておかなければ、長い竿を使って、二階の部屋にかけてある洋服まで引っかけて盗んでいってしまう、油断のならない人々という姿であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">それなのに、この電車の中でのできごとはいったいどう考えたらいいのか?私は日本にいたとき、バスに乗って、五〇〇円紙幣を出して運賃を払おうとしたとき、十八才ほどの女性の車掌に、まるで、あわよくば、ただ乗りをするつもりだったのだろうといわんばかりに、さんざんいやみを言われたことも経験しているので、この中国の女性車掌のことばをそのまま素直にうけとれなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ホテルに帰って、通訳の崔さんにこのことを話すと、崔さんは「ええ、この次電車に乗ったときキップを二枚買ったらいいですよ」とあたりまえのように言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">すべてがこういう具合だというわけではないが、あの貧二人とドロボーの国といわれた中国で、こうした人間の言頼関係が育っていることにおどろかずにはいられなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">経済的にまだまだまずしい中国でこのような人間同士の信頼関係が育ってきている土台は何かと言えば、なんと言っても、社会主義中国が国民に生きる展望を示しているからなのではなかろうか、まさに、社会主義好!(社会主義はすばらしい)と感じたものである。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>労働英雄=李先生の生いたち=</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一九六五年の暮、冬休みに落陽方面の旅行に招待された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">瀋陽賓館(旧本天大和ホテル)に宿をとって、方々の名所旧跡、工場施設などの見学に案内される傍、私たちの希望で労働者との懇談会も持たれた。私たちが懇談した中に李さんという三十才の女教師がいた。</p><p class="ql-block">李さんは遼寧省のある農村で貧農の娘として生れたが、彼女が三才のとき、地主からの借金が返せず没落してしまった。その時彼女は近所の農民に引きとられたが、その農民も彼女が八才のときに没落してしまい、別の農民に童養題(成長してから息子の妻とするためにもらいうける養女)</p><p class="ql-block">として引きとられていった。ところが、この農家も彼女が十四才になった年に没落してしまった。こんどは引きとってくれる農民もなく、彼女は着のみ着のまま、手籠ひとつさげ、ゴミ箱を大とあらそい、人の食べ残した瓜の皮を拾い、門口に立っては人の情にすがって乞食をしながら数ヶ月の間、かろうじて命をつないでいたが、年も暮れかかり、寒さに向って、精も魂も尽き、生死の間をさまよっていた時、折しも、東北地方を一挙に平定してきた解放軍によって救われたのだった。一九四九年暮れ、新しい中国|中華人民共和国が成立した直後のことであった。解放軍に救われた李さんは、十四才にして、生まれてはじめて読み書きを教わり、十九才で小学校を卒業するとすぐ小学校の代用教員となったのであった。そして今、私たちの目の前にある三十才の李さんは、社会主義社会の労働英雄として、誇りある教育者としての人生を歩んでいるのである。</p><p class="ql-block">淡淡と語られた李さんの半生であったが、私はここに社会主義社会の真髄を見い出したように思った。李さん個人の努力も大変なものであったろうことにちがいはないが、もし李さんがひもじさと寒さのために生死の間をさまよっていた時、解放軍によって救われていなかったなら、死んでいたか、あるいは生きのびることができたとしても、教育をうけ、誇りをもって生きることができたであろうか?それはあり得たとしても、シンデレラ姫の御伽噺の中の幸運程の確率もないにちがいない。李さんの乞食から労働英雄へという人間性の回復、人間の尊厳の回復を保証したのは偶然の幸運ではなく、中国が新しい社会、社会主義社会になったことであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">事実、社会主義中国の誕生は無数の人間の尊厳回復をしてきたし、無限にその可能性をもっていた。私は中国に滞在した二年間に数多くのそうした証に遭遇し、社会主義制度がはらむ人間性の真の解放の可能性をますます確言していったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その後、毛沢東らが社会主義の道を踏みはずして引き起こした「文か だいかくめい」が人間性破壊の罪悪を犯したことは残念だし、人民の受けた痛苦と歴史の発展の受けた障碍を思うとき憤りを禁じ得ない。しかしそれでも尚、社会主義が人間性回復の無限の可能性を持っているとの確信には少しのゆるぎもない。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>鉄の街鞍山</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">瀋陽方面の旅行の第三日目に鞍山の製鉄)</p><p class="ql-block">私たちのバスが鞍山に近づくと真先に眼にとびこんできたのは、ラクダのこぶのような形をした鉄鉱石の山脈だった。</p><p class="ql-block">鞍山は四囲全体が赤黒い鉄鉱石の山であり、鞍山の町そのものが巨大な製鉄所となっていた。</p><p class="ql-block">工場に一歩足を踏み入れると、巨大な炉からは真赤に溶けた鉄が黄金色の鉱滓を浮かべて流れ出し、次々と継ぎ目なし鋼管が作られていく光景があらわれる。</p><p class="ql-block">解放以前からの古びた炉も、作られたばかりの真新しいクレーンも活気に充ちてフル回転している。</p><p class="ql-block">「多快好省」(多く、早く、立派に、むだ無く)などの、生産目標の早期達成をよびかけるスローガンが工場内至るところに貼り出されていた。</p><p class="ql-block">工場のレンガ造りの外壁には「美帝国主義従越南滾出去!」(アメリカ帝国主義はベトナムから出て行け!)とベトナム人民支援の大看板が掲げられていた。</p><p class="ql-block">その中国が、その後、ベトナムに侵略戦争をしかけるようになろうとは、いったい誰が想像できたろう!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>巨大な露天礦</b></p><p class="ql-block"></p><p class="ql-block">瀋陽方面への旅行で忘れることのできない見学地はなんといっても、露天掘りで有名な撫順炭礦である。</p><p class="ql-block">採炭現場に案内されて、私はおどろきのあまり呆然としてしまった。私たちの立ったすぐ眼の前には、巨大な人工の谷が広がっていた。巾は二キロメートル、長さは十数キロメートルはたっぷりある。深さは三百メートルほどはあろうか。谷底でうごめく人影が豆つぶほどに見える。</p><p class="ql-block">私たちの足もとから、吸い込まれそうな急斜面が下り、反対側の斜面がよく見渡せた。そこには萌黄色に近い泥岩の層にはさまれて黒光りのする巨大な石炭の層が浮かびあがっている。その炭層は厚いところで優に百メートルはある。案内の中国人の説明によると、厚いところで百四十メートル、薄いところでも四十メートルはあるとのことであった。しかもカロリーの高い上質の無煙炭である。</p><p class="ql-block">私は、この資源の豊かさに舌を巻かないわけにはいかなかった。炭坑夫の息子として、常磐炭鉱の地下五百メートルで見た、あのわずか数メートルの炭層を思えばなおのことである。</p><p class="ql-block">撫順の炭鉱では、同じ、炭鉱の出身者ということで中国の炭鉱マンたちから大変もてはやされ、いささか有頂天になった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>爽やかな大連の夏</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一九六五年七月初め。大連で迎えたはじめての夏である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連日語専科学校の新しい校舎が南山に近い市街地に完成して引越しも終った。私たちの宿舎も雲山賓館から、より南山の麓に近い南山招待所という幹部保養所に移った。南山招待所から学校まではニキロメートルほどの距離になったので、自転車を二百元で買い込んで、これで通勤することにした。自転車を買うにあたっては工作単位(私たちの場合は大連日語専科学校)の証明が必要だったり、交通大隊(警察の交通課)に行って半日がかりで鑑札をうけねばならないなどのわずらわしさがあったが、折から気候もよく、一挙に行動範囲も広まることもあって、自転車は招待所の日本人全員にたちまちひろまった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">招待所から学校まで、ほとんど切れ目なしにポプラ並木が続く。真夏の強い日差しをうけたつややかな緑色したポプラの葉が、さあっと風にあおられて、白っぽい葉裏を瞬間的に見せる、そうした中を自転車のペダルを踏むのは爽快だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連の夏の日差しは強く、とても暑く感じる。日差しの中にいるとじっとしていても汗がにじみ出てくるが、木陰に入ったとたんにひんやりとして、半袖では肌寒く感じるほどだ。こんなに爽やかな街路が夏の夜は夜更けまで大変な遊び場、社交場となるのだった。街の音楽好きたちが胡弓や笛や太鼓など持ちよって夜中まで音楽会をくりひろげる。それもほとんど毎晩のようにである。それでいて特に安眠妨害の苦情が出たという話もついぞ耳にしなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">いや、むしろ、近隣の老若男女が寄り集って楽しんでいるのであった。その大らかさには敬服するほかはない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>真夜中の夫婦げんか</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連にしては珍しく蒸し暑い夜であった。</p><p class="ql-block">その夜も遅くまで続いた街頭音楽会の喧噪も一頻り止んで、夏の夜の静寂が街をすっぽりと包んでいた。私もそろそろ眠りに就こうかとスタンドのスイッチに手を掛けた時、何かけものの吠える声のような音を聞いたような気がして、スイッチをひねる手を止めて耳をそば立てた。「うおーんうおーん、ろろろー」確かにけものの吠える声のような音がする。なおも耳を澄していると、けものの声ではなく、何か恨みのこもった呪文のように聞こえてきた。それもだんだん声が大きくなってきて、呪文も切れめなくつづけられている。さらに耳をそばだてていると、呪文の声よりははるかにかすかながら、他にも人声がところどころ交じって聞える。どうやら呪文の大声の方は年かさの女の声であり、かすかなとぎれとぎれの声は年の頃は見当がつかないが男のものにちがいなかった。私は窓に寄り、小窓を開けて、街灯の光をたよりに真夜中の事件現場を眼で探った。窓を開けたので、今度は声は大きく響いてきたが、左手の山裾の方向らしいと見当はついたが姿は見えなかった。私は好奇心にかられ、様子を見に外へ出てみることにした。門を出て左手の街路を少し上りはじめると、すぐ五十メートルほど先に、二~三十人の人だかりがしていて、そこから人声がしていた。そろそろと近寄ってみると、人ごみの真中に、髪をざんばらにした四十五才ぐらいの女がひきちぎれかかったシャツから巨大な乳房を半ば露にしながら、眼尻を引っつらせて、眼の前に首を落している男の鼻先に太い指をつきつけて、大声でなじっているようすであった。女は大柄で、男は女より二まわりもきゃしゃに見えた。女が大声でなじるのに対して、男は肩をすぼめながら時々細い声で抗弁しているようであったが、そのやりとりは私にはほとんど理解できなかった。よく注意してみるとやりとりは二人だけでされているのではなかった。六十才ほどの白いひげを生やした老人が二人のやりとりの間をぬって何やら言っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「先生も見に来てたかネっ」とふいに肩を叩かれ、心臓が止まりそうにびーっくりした。ふりかえるといつのまに来たのか、この近所に住んでいる通訳の邸さんが黒い帽子をかぶってニヤニヤ笑いながら立っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「あっ、邱さんですか。あのー、この人たち何をしてるんでしょう?」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">と私が胸をなでおろしながら聞くと、「わからんかネ?夫婦げんかだよ」といって邱さんは楽しそうに笑った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">遅いから早く帰ってお休みなさいと邱さんにうながされて私は素直に従った。朝鮮戦争の時、援朝中国人民義勇軍として参加してアメリカ侵略軍と戦った際、栄養失調のために頭髪が皆ぬけてしまったという邱さんはまだ四十半ばだというのに年齢よりは十才以上も老けてみえる。私はこの邱さんに父親のような親しみを感じていつも甘えていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">後で邱さんに聞いてみると、あの夫婦は夫がちょっとしたことで暴力をふるったので妻が外にとび出し、夫の不正を大声で訴えていたのだそうである。もう一人のひげの老人はその街の長老で、ああしたもめごとのあるとき裁判官のような役割をするのだと教えてくれた。新しい中国になってからのやり方かと重ねて聞いてみると、案に相違して、「昔からの習慣だよ」ということであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">おくれていたとばかり思っていた旧中国の中にあっても、庶民のくらしの中にはこんな合理性も根づいていたことを知らされ、あらためておどろいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">それにしても、夫の不正がいかばかりであったかは知らないが、あのように完膚なきまでやっつけられてしまっては、後の立ちあがりが大丈夫なものかといささか心配な気がしたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block">「<b>大和魂」—残留邦人—</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちの「大連日語専科学校」は、一九六四年に開校したばかりの学校であった。次の年に、大連の市内に新しい校舎が作られるまでの間、大連の市街地から南へ五キロメートルほど離れた郊外にある鉄道学院の建物の一隅に仮住居をしていた。ここから一キロメートルほど離れたところに海運学校(日本の商船学校にあたるだろう)があった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">仮住居の校舎での授業もあとわずかになった六五年の春、学校の教務長から、海運学校にも日本語の講座があるのだが、その授業を日本人の先生方に見てもらいたい。そして、日本語らしい日本語教育ができるよう援助してもらいたいという話があった。私たちは海運学校にも日本語の講座があったことをその時はじめて知ったのだが、私たち日本人教師の側に否やはなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">数日たった午後、私たちは海運学校へ出かけた。案内されて日語の行われる教室に入ると、そこには二十人ほどの学生たちがいて、一斉に「ようこそ、いらっしゃいました」ときれいな日本語であいさつをした。わたしたちも「こんにちは」とあいさつをした。しかし、私たちがびっくりしたのは、黒板の前に立っている先生が和服を着ていたことであった。五十才ほどの品のいい、まぎれもない日本人女性であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">授業は会話を中心に順調に進められたが、教科書に出てきた「桜の花」の説明のところで、「桜の花は、ぱっと咲いてぱっと散る。日本人の大和魂をあらわしています」という説明を聞いて、私は「はっ」とした。それまでは、おおぜいの教師たちに見られての授業で、やや気後れもしたろうし、声も小さかったが、話す日本語に一点のよどみもなく、私は、すっかり、私たちと同じ日本人の一人が授業をしているという気で、その場に臨んでいた。しかし、この桜の花の説明を聞いて、彼女が戦前のままの日本人であり、すでに二十年間、戦後の日本社会を生きてきた私たちと大きな隔たりを持つ存在であることに気づかされた。その説明を聞いて、どの日本人の表情にも一瞬、当惑の影が走った。この婦人が戦後どのような生き方をしてきて、今中国にあって中国側からどのように位置づけられているのかは知る由もなかったが、皇国日本の侵略の残滓を思わせる「大和魂」のことばが出てきたことを、私たち日本人は一様に「まずい!」と感じたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この「まずい!」という気持ちは、戦前の侵略の匂いの濃いことばを中国の学校の授業で肯定的に教えるのはよくないのではないか、ということばかりではなかった。初見の人ではあったが、同じ血を引く日本人の失敗を、身内の失敗として感じたのであった。異国にあってはこうした感じ方をしやすいものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">授業が終ってから、その日本婦人をかこんで、授業の批評をした。あれこれの工夫すべきゃり方などについての意見がいくつか出された。それを彼女は熱心にメモをとりながらうなずいて聞いていた。色々な知点の指摘をされることがうれしそうにさえ見えた。私は「大和魂」のああいった説明はまずいのではないかと意見を述べた。突然、彼女の表情が強ばったように見えた。その後は、以前の生き生きとした様子はすっかりみられなくなってしまった。私は、中国人のいる前で、そのことを指摘したことが彼女の立場を大変悪くしたのではないかと気になり、責任を感じて気が重くなった。親切な助言のつもりで言ったことだが、私は深く後悔をした。彼女自身はどんなわけで中国に残ったのか、残らざるを得なかったのか知らないが、残留邦人たちが異国にあって、ひっそりと生きていく心を思えば胸がつまる思い出あった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>黄河をわたる</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">六五年の夏休みに、三週間ほどの日程で旅行に招待された。旅行先は西安、延安などである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">七月末の夜九時近い夜行列車で大連駅を出発し次の日の夜八時に北京に着いた。</p><p class="ql-block">北京で二泊した後、朝八時の特急寝台列車に乗り込んだ。</p><p class="ql-block">列車は京漢線(北京~武漢)を一路南へと走った。保定、石家荘と南下し、真夏日の中を進む列車全体がうだるように暑い。特に私は天井に近い二階のベッドだったので扇風機の風など一向に効果がないほどに暑く感じた。それでも、列車が邯鄲附近を通過するころには、車窓に顔を押しつけて、その風景を印象にやきつけておこうとじっと眺めつづけた。ろばや馬に引かせた無数の馬車が、石炭を積んで行き交っていた。「なるほど、父はこの附近の炭鉱に出稼ぎに来ていたんだな」と思うとなんだか懐しいような気持ちになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ようやく真夏の陽もかげりはじめて、さしもの暑さもおとろえはじめたころ、列車は黄河を渡ろうとしていた。同行した通訳の金さんに、間もなく黄河を渡ると知らされて、日本人は全員コンパートメントを飛び出し、最後尾の展望車へ向った。間もなく列車の進行方向に黄河が姿を表し、わたしたちの乗った列車は、ゴォーウと鉄橋にさしかかった。黄河の水は、水というよりは泥水といった方が正確だ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">折しも、太陽が沈んだばかりの残照の中で、青と灰色を混ぜあわせた泥絵具のように、キラリ、キラリとにぶく光を反射させながら、もつれあうように流れていた。対岸までは五キロメートルはあろう。夕闇にぼんやりと見えている。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">列車が河の中ほどに差しかかった時、真下に見下した流れは、幾重にも打ち重なり、入り交り、まるで数万の鰹の大群がたわむれながらゆっくりと下っていくようであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">目をあげれば、河とは言え、まるで海のように大きく、両岸ともはるかに遠い、列車の中にありながら、なんとなく心細く、不安にさえ思った。じっと息をとめていたが河の半ばまでももたなかった。中国大陸のスケールの大きさにあらためておどろいたが、「黄河をわたった」ということで私は興奮をおさえることができなかった。車へ向った。間もなく列車の進行方向に黄河が姿を表し、わたしたちの乗った列車は、ゴォーウと鉄橋にさしかかった。黄河の水は、水というよりは泥水といった方が正確だ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>西瓜の皮をひろう少女</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この夏休みの旅行も鄭州市(河南省首都)、洛陽市、そして西安市とめぐって、いよいよ最後の目的地延安に向うことになった。延安は焼西省にあって、中国革命の根拠地として知られているところである。西安の北約三五〇キロほどのところにあるが、途中、銅川までは列車で行った。銅川の招待所(ホテル)に一泊することになったが、まだ日の高いうちに着いたので、銅川の町を見物して歩いた。黄土の台地にはさまれた坂の多い町である。ここには沢山のほらあなが掘ってあって、そこに住んでいる人が相当いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">これはこの地方の特色で、夏涼しく、冬あたたかいので、便利だということだった。この地方では、このほら穴を減とよんでいた。わたしたちの泊った宿舎も、半分窯洞であった。黄土台地の中腹まで無数の窯洞が見える。東側の台地にそって坂をだらだら登っていくと青緑のドブ水があふれて坂道を横切って流れており、その中に一匹の豚と数羽の鶏が争ってえさをひろっていた。プーンと豚の排泄物の臭いが鼻をつく。そこを危く跳びこしてさらに進むと、路辺で小玉の西瓜を売っているのに出会った。ちょうどのどがかわいていたので、三ヶほど買って食べた。包丁を入れてもらった三日月形の西瓜を食べていると身にぼろをまとった十才ほどの少女が、手籠をもってすぐ側に立っているのに気がついた。日本人の中のひとりが、食べおわった皮をポンと捨てると、その少女は、いそいでそれを拾うと、まだ多少赤味の残っている果肉の部分をガリガリと食べはじめた。そして、ほんの薄い皮だけ食べ残すと、それを手籠に入れた。そして、また、私たちの食べている様子をじっと見ているのである。二切れ目はちょっと口をつけただけでその少女に手渡した。とても味わっておいしく食べるわけにはいかない。「こういうくらしの人もいるのかぁ!」社会主義中国に来てはじめて出会った姿である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>五百語くらいしか話せない人々</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">銅川での窯洞の宿泊は快適であった。延安はさらに二百キロメートル余り北にある。ここから北へは鉄道がのびていないので、バスで行く。ほこりっぽい黄土の中を畑に沿い、川をわたり、丘を起えて、うねうねと進んだ。ほこりだらけの熱風がバスの窓から吹き込んでくる。風がまったく涼しく感じられないのである。いや、かえって、頬がヒリヒリ感ずるほど熱い、乗客全員、髪は金粉をほどこしたよう、顔にも黄色い砂ぼこりがメッキのように付着してしまった。お互が指差しあって笑っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">銅川から北上すること約七十キロメートル、黄陵もすぎ、黄河の支流渭水から分れた洛河を渡るところ、交河口に着いた。ここには橋がかかっていない。わずか百メートルほどの川巾だが、大きな筏で渡ることになっている。上流からワイヤロープで繋がれた筏を小型の発動機船が押していくしくみになっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ところが、前日奥地に降った雨のために、川が増水していて、水位が下るまでしばらく待たねばならないと通訳の金さんに知らされた。特に休憩所もない。何時間待たねばならないかもわからぬまま、私たちはバスの中にとじ込められることになった。待つこと二時間、まだ川の状態は良くならなかった。昼食の予定地に着かなければ食事はとれない。十二時もまわって、喉がかわくのと空腹とで、バスの中ではあちこちからため息がもれる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私はバスから降りて、附近の散歩に出かけた。まわりは青々とした野菜畑である。はるか五〇〇メートルほどはなれたところに農民がゆっくりと働いている姿が一つ見えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">川の流れに沿って大きく右曲りに下った地点である。私が、その人影に近づいてみると、そこはトマト畑であった。農民は熟れたトマトを摘み採っているところであった。麦藁帽子をかぶったその五十才余りの農民の顔は土色に陽にやけていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">このトマトを買っていってやったらみんなよろこぶだろう、と思い、その農民に話しかけてみた。口はとても重かった。西紅柿(トマト)ということばも西紅柿(トマド)のように聞える。それでも、なんとか話を通じさせて、大きな籠にいっぱいのトマトを手に入れることができた。値段は三毛銭(日本円で五十円に換算。実質は中国人の二食分の食費以上にあたる)である。金をうけとってその農民は大変よろこんだ。籠ごともっていっていいと言う。私はこの収穫物をもって意気揚揚とバスに戻った。採れたての新鮮なトマトは一人に二個ずつ配ることができた。みなに大変よろこばれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ことばがなかなか通じなくて、とまどったことを話すと、通訳の金さんは、奥地に入ってくると漢語を五百語くらいしか知らない人たちがたくさんいると説明してくれた。外部との接触もほとんどなく、身辺の生活用語だけで日常を送っているので、それで間にあってしまうのだというのである。ラジオも新聞もない、こうした土にへばりついたようなくらしにとって、中央の政治がどうのこうのということは、まず、自分たちには何の関わりも持たないできごとなのだろう。こうした広大な周辺をかかえた中国の社会主義建設はなかなか大変なのだろうなと感じた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">金さんは、「ことばが通じにくかったのは鈴木先生の中国語の水準に問題があったためではありません」と私をなぐさめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">午後一時をすぎたころ、バスはようやく彼に乗せられ、洛河を渡ることができた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>黄塵万丈の地</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">洛河を渡るとすぐ、二~三百メートルの丘陵地にのぼる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">至るところが浸蝕されて大きなクレバス状にけずり取られている黄土の台地の上を、くねくねと曲った道に沿ってバスは進む。ほとんど人家は見えない。左手に深く切れ込んだ谷底に洛河の曲りくねった姿が時々視界に飛び込んでくる。かと思うと、谷の深さにおびえてはねかえされたように、バスは大きく右へ曲って、台地の奥深く逃げ込む。台地の上は半分近くが草木も生えていないで、黄士がむき出したままになっていて乾燥していた。バスの通ったあとはもうもうと砂ぼこりが立っている。車窓から吹き込む風もあい変らず砂塵を含んだ熱風である。</p><p class="ql-block">どこまで続くか・・・・・・。車酔いで顔色の悪い人も出てくる。</p><p class="ql-block">この何百キロも続く台地が、全て黄色い砂土を積みあげたような黄土なのである。黄河は、この土を何万年も運びつづけているのだろう。黄万丈!。決して大げさな表現ではないと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕方四時近く、バスはようやく下り坂にかかる。人家や集落もぽつぽつ見えはじめ、延安に近づいたことを窺わせる。バスはどんどん坂を下る。やがて、眼前に三角形の盆地がひらけてきた。レンガ造りの建物や窯洞の住居が立ちならぶ市街地に入った。延安についたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">高台の斜面に建てられて、見はらしのいい招待所(ホテル)に旅の荷を解いてほっとしたのもつかの間、気温が急に下りだした。夏物の半袖しか用意していなかった私は鳥肌が立つほどであった。真夏だというのに寒くさえ感じる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">やはり長袖のシャツの用意をしてこなかった徳武さん一家と私は、長袖のものを買いに商店街へと出かけた。あれやこれやの選択はしていられない。衣料品店の品数が少ないばかりではない、一時しのぎのために、あまり値のはる物を買うのはばからしかったからである。結局、こげ茶価に染めた厚手の木綿の長袖シャツをみんなお揃いで買った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">それに決めるとき、徳武さんの奥さんは「スゴイわね」と言ってだっこ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">徳武さん一家三人と私の四人が、そのシャツを着て招待所に帰ると、他の日本人たちは「いよー、まるで雑技団(曲芸団)だね」とひやかした。通訳の金さんだけは「これは、丈夫ないいものですよ」とまじめに言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その冷気は次の日も一日続いた。大陸奥地の気候の厳しさを感じさせられたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>老解放軍兵士</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">延安は中国共産党が大長征の末たどり着き抗戦の根拠地とした革命の聖地として知られている。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">確かに延安は軍事的には恰好の根拠地であったろう。四方はすっかり高い山に囲まれていて、ここに侵入するには延河に沿って、せまい谷を何百キロも渡ってくるか、あるいは黄土の台地を何百キロもこえてこなければならない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちは滞在した二日間、楊家吟、表園などのさまざまな革命史蹟を見学し、抗日、革命戦争当時の困難なたたかいの様子などを聞いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">軍事的には有利でも、この狭いやせた土地で、衣食住を自給自足していくことは並大抵の苦労ではなかっただろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">延安を潤す延河とその支流の交わる三角洲を開拓して耕地にしていった南活開拓の事業などの話を聞いたが、築いても築いても洪水に押し流されてしまう堤防。少ない道具と資材しかないなかでとうとう完成させていったことなどが感動をもって誇らしげに語られる。私たちにとっては、それだけのことかと受けとられやすい工事だが、延安が革命の安定した根拠地として確立されるかどうかの命運をかけた仕事であったことからすれば、彼等の感動も誇りももっともなことなのであろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">楊家吟や裏園の毛沢東が中国革命を指導した時に使っていた窯洞や、岡野進(野坂参三氏)が日本兵の反戦組織を指導した時に使っていた窯洞なども見学してきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">延安滞在二日目の夕方、長征にも参加した老紅軍兵士の話を聞く晩餐会が開かれた。</p><p class="ql-block">その席で、今は年金でめぐまれた生活をしているという六十二才の老紅軍兵士(退役している元革命軍兵士、老は敬愛の情を表すことば)から次のような話を聞いた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">長征のとき、冬の山越えをする準備に、籠の村で唐辛子をみっちり仕入れた。これは、元気をつける食べものになるだけでなく、靴の先に入れておくと、自然に粉れて、それが足の爪先を刺して、ぽかぽかと温かくなるので、冬の寒さをしのぐのに必要だった。軍律が厳しく、農民のものを盗んだり、借りたものをきちんと返さなかったりすると、厳しい処分をうけた。盗んだり、強姦したりしたものは即座に処刑された。だから、規律を破るものは殆んどいなかった。木の根、草の根など食えるものは何でも食べた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">また、何日も食料が手に入らず、空腹をこらえながら行軍を続けたこともあった。紅軍に好意的な村に着いたときは他々なもてなしを受けてうれしかった。あのころの苦しさに比べれば、今はめぐまれて、天国のようだーというような話であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「どうして紅軍に参加する気になったのか?」という質問をすると、その老紅軍は、何のけれん味もなく「食うためだ。私はもともと農民だが、その頃の農民は貧しくて食っていくことができなかった。そこへ、紅軍に入れば飯を食わしてもらえるという噂が流れてきたので、飯を食わしてもらえるなら紅軍に入ろうと決めた。大部分の紅軍の兵士は飯が食わしてもらえるということで軍に入った」と答えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この返事は、私たちの大方の予想を裏切ったもので、大変印象深かった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五月4日 更新分</p> <p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">第五部 完結編</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;">文かだい革めいの嵐の中で</b></p><p class="ql-block"><b style="font-size: 20px;"><span class="ql-cursor"></span></b></p> <p class="ql-block">发表于いわき文学第五号1984年</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>酒池肉林の晩会</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">人民大会堂の中にある大広間には世界各国の公式代表から商社マン、それに私たちのような中国在住の専門家、そして接待にあたる中国人幹部と通訳約五千人が四百余りのテーブルに分れて着席していた。テーブルの上には最高の中国料理と茅台酒はじめ各種の飲みものが用意されている。</p><p class="ql-block">--一九六五年九月三十日、国慶節の前夜祭である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">何番目かに演壇に立った周恩来が主催者あいさつをしたが、五十メートル以上離れたテーブルにいた私には、その顔立ちなどはようやくそれとわかる程度にしか見えなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">乾杯の音頭で大宴会となったが、このような豪華ないプションは私にとって生れてはじめてのものだったし、の後もお目にかかっていない。いや、これからもまずことにちがいなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国人はすすめ上手である。美味に舌鼓をうち、美酒にしたたかに酔ってホテルへ帰る車の中で、私はふっと酒池肉林”ということばを思い出した。車の軽い震動で茅台酒の酔いが急にまわってきた、途切れがちな意識の中で私は考えた。あれほどの大晩餐会を開くには厖大な費用がかかるだろう、それほどの費用をかけてやる意味は何なのか?中国に来て一年近くなり、経済事情もある程度わかるようになっていたので気がかりだった。国の威信を誇示するためにか?・・それもあるだろう・・・。中国に来て間もないころ、同じ日本人教師の吉田さんから「中国の政策は買収政策だからな、こちらが相当律してかからんと堕落させられてしまうぞ」と言われたことを思い出した。このことは、私たちの給料を決められた時、高すぎるのではないかという話をしたときに言われたのだったが、この時妙に心によみがえってきて、酔った脳にまとわりついた。私はいつしか車中で眠ってしまっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>百万人のパレード</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">十月一日。天安門の観覧台から見おろす眼前の天安門広場には百万の大群集が立ち並び、広場と観覧台の間を東西に走る幅百米の天安門通りを人民解放軍の部隊を先頭に祝賀パレードの行進が陸続とつづく。トラクターの部隊を先頭に立てたトラクター工場の労働者たちの行進、大きな大根の模型を掲げて行進する人民公社の農民たちの行進、学生たちの行進、そして、色とりどりの民族衣装をつけて踊りながら行進する人たち・・•・・・と百万人の大行進が私たちの前を通りすぎるまでに、延々三時間がすぎていた。行進の至るところに、毛沢東、劉少奇、周恩来などの大きな写真や、毛主席万歳”"劉主席万歳”"中国共産党万歳”などのスローガンがかかげられている。なかでも、赤いネッカチーフをつけた少年先鋒隊(ピオニール)の大部隊が手に手に花をもって行進し、観覧台の前を通過するときに、可愛らしい声で、毛主席万歳”"劉主席万歳"”共産党万歳”と唱和し、ワァーッと観覧台の方に駈け寄ってきたのに対して、台上中央最前列に居並んでいた毛沢東、劉少奇などの党と国家の指導者たちが、身をのり出すようにしてにこやかに手を振って答えていたのはほんとうにほほえましい光景だった。これほどの大部隊の行進は実に圧巻である。ほんとうの意味での"力”というものを感じさせられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国人民大衆が、党と国家、そしてその指導者たちに深い信頼を寄せているのだな、とその時強く感じたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夕方、天安門広場で大園遊会が開かれ、広場の至るところで曲芸や民族の衣装もあざやかに、漢族、朝鮮族、蒙古族と音楽やら踊りやらがにきやかにくりひろげられた。日没と同時に花火大会に一転した。広場をはさむ人民大会堂と革命博物館の両方の屋上から、広場の上空めがけてつきつき打ち上げられる尺玉。作烈音がドーンと腹の底まで響いてくる。孔雀や枝垂柳が秋の夜空を色どり、銀河の世界への誘いのようであった。さすが本場の花火である。見事なものであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>かげり</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連二度目の春をむかえた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学生たちの政治学習の時間が多くなった。それとあわせて、学生たちの中に急数な変化が起ってきたのを感じた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「先生、私たちはお隣の海運学校へ遊びに行きます。あなたも一緒にいらっしゃいませんか?」とクラスの女子学生媽(感觉是“冯”-Anna)に声をかけられた。四月中旬、会話の授業が終った午後のことである。私たちは、よくこうした形で学生たちから誘いをうけることがある。教室を離れての会話の実践の場として彼らは好んでそうしたのだが、私たちもそれはEうところだった。一キロメートルほどしか離れていないと運学校までのでこぼこ道は、たちまち日本語会話の野外#室となった。教室の中では出ない冗談までもとび出して”しい会話が続く。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">媽は小肥りで下ぶくれ眼鏡をかけていたが、声が澄ん一いて歌がうまかった。日本語の習得に積極的で会話の成ははトップクラスだった。彼女は突然道端を指差して「クソです」と言った。おどろいて彼女の指差したあたりをみそとそこには犬の糞があった。学生たちの間にどっと洪笑が起こった。たしかに「クソ」ではあったが、この若い女子学生の口から、こうまともに発音されるといささかの戸惑いを感じないわけにはいかなかった「ウーン」。私があいづちをうちかねていると、媽は真剣な面持ちで「ちがいますか?」と問いかえしてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「そうですね。正しいことは正しいんですが…・・」となおも言葉をにごしていると、他の学生たちとの討論になっていった。日本語ではそうは言わないのではないかとか、発音がわるいのではないかとか、日本語のあまり上手でないものはいらだって中国語で意見を述べはじめる。日中チャンポンの賑やかな討論になった。媽は他の学生達の集中砲火をあびて、顔を真赤にして抗弁する「日本語で必ずックソ”と言います。たとえば「犬のクソ"とか「馬のクソ”とか…私はある本でみました」と最後まで日本語でしゃべりつづけた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「それでは、先生の意見を聞いてみましょう」と彭玉雲が静かな調子でいった。いずれ私が何らかの結論を出さなければならないことだが“難しいな”と思った媽さんの言ったことは正しいのですが、ックソ”という言葉はあまりきれいな言葉ではありません」とここまで言うとみな笑ったり、うなずいたりした。「若い女性がそのように表現するということはあまりありません」「それでは、私たち若い女性は、ああいうものを何と言いますか?」と媽はますます真赤になりながら問いかえしてきた。「そうですねー、ウンチとか糞あたりですか」と答えると、彭が「ウンチと糞はわかりました。しかし、あたりはわかりません?」とけげんな顔をした。日本語の会話指導にはこうした難しさが常につきまとう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">次の日、この元気な媽がしょんぼりしていた。放課後私は媽に声をかけた「馬さん、どうかしましたか、気がありませんね?」媽は眼を真赤にしていた。うっすらと涙さえにじんでいる。「私は思想がよくありませんからー」と涙をぽとりと落した。昨夜政治学習会が開かれ、そこでは思想が悪い、毛主席のよい学生ではないということで集中的な批判を受けたというのである。媽の胸には共青団(共産主義青年団)のバッジはなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">このころから、夜となく昼となく、共青団の会議や、全学集会などが頻繁にもたれるようになっていった。日一日と学生の中の空気が変っていった。初め大方の学生は生き生きとしてきたが暗いかげりを見せる学生もぽつぽつと増えてきた。会話の達者な学生の多くは後者に属し、どちらかと言えば、日本語修得の面では大変遅れていた者の中から勢いづく者が多くあらわれてきた。授業の中でも「私は貧農の出身です」と誇らかに言う者、「私は富農の出身ですから思想はあまりよくありません」と声を落して言う者などがあらわれてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国人の中で、出身階層の問題が激烈に論議されはじまっているらしかった。学生同士の間に何かピンと張った緊張した空気がただよっていた。中国人教師の中も同様であった。教師達の方は学生達よりもさらに悩み深くみえた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>毛沢東思想で教育を</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そのころ、日本人教師の中では、三月(六六年)に訪中していた日本共産党代表団と中国側との間で共同声明が発表されなかったことについて、他々な憶測がなされていた。「なにがあったのだろう?」、「ベトナム問題で意見が合わなかったのではないか」「ソ連の評価でくいちがいがあるからではないか」「昨年暮、"呉の歴史劇『海瑞の免官』の批判にはじまった文化大革命に日本共産党は反対なのではないか」「文化評論(日本共産党の文芸月刊雑誌)にのったベトナムの文化活動、文化政策に対する評価は、暗に中国の文化大革命を批判しているのではないか」「いや、それは考えすぎだ」などの意見が交わされていたが、確たるものはなかった。新聞・ラジオの報道には耳目をそばだてていたが、どうもはっきりとしなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ある日、学校側から、夜、学校の講堂で重要な報告が行われるので、日本人教師の方々も一緒に聞いてほしい旨伝えられた。その夜、学校の講堂で、文化大革命についての毛沢東の指示だという長大な報告がなされた。日本人教師には、イヤホーンを使って同時通訳がなされた。通訳にあたったのは中国人の日本語教師劉さんだった。彼は日本の医大で学んでおり、本業は医者だった。大変流暢な日本語を話す人だった。報告の中味はよく理解できなかったが、党中央に腐敗分子がいるので、みんなで立ちあがり、あらためさせようと言っているようだった。学校側では、日本人教師に対しては「学生たちが今とりくんでいる文化大革命の課題をうまく進められるように、先生方も日本語教育の場を通して援助してやっていただきたい」「学習の基本は毛沢東思想を身につけることです」と、毛沢東思想、文化大革命の路線にそって教学を進めることを求めてきたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>自殺者</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連のアカシアの緑がつややかさを増す五月末、私たちの住んでいる南山招待所のすぐ裏手にある南山公園でただならぬ人々のざわめきがあった。私も様子を見に行ったが人混みの中までは入れず、まわりの人に聞いてみたが、どうも要領を得ない。とうとう、何がなんだかわからずに帰ってきた。しかし、なにやら、沈鬱な空気が気になって招待所に帰って通訳に聞いてみたが、口を濁して語りたがらなかった。それが、ある分野の地方幹部が文かくの中で批判され、追いつめられて首をつったのだと知った時の衝撃は大きかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">伝えられる文かくの激烈さ、反もう沢東、反かくめいのかどで大衆集会の中でトラックの荷台に乗せられて糾弾されたり、首に反革めい分子"“犯罪者”の看板をぶらさげさせられ、両腕を後手にねじあげられて首根っこを押えつけられたかっこうで市中を引きまわされる、そして、殴る蹴るの繰行をうける.....・こうしたことは、遠い北京あたりでのことと考えていたが、それが、こんな大連のような地方にまで起ってきたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学生達も二派あるいは三派に分れてはげしい対立をするようになり、大連日語専科学校の建物にも、激烈な文章の大字報(壁新聞)が所狭しと張り出されはじめた。新聞の見出し活字が大きくなり、色刷りで出されることが多くなった。ラジオから流れるアナウンサーの声もトーンが強まった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>劉紫芬</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">午前中の授業を終えて、ぽかぽかと暖い大連の初夏の日差しの中へ一歩ふみ出した。あとを追って出てきた彭です」「劉さん?」「劉紫芬さんです。病気がよくなりましたから帰ってきました」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">女子寮の二段ベッドの下の段に腰かけて劉紫芬は待っていた。うつむいて両手を膝の上にのせ大柄な体をすぼませるようにしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「やあ、劉さんおかえりなさい。もうすっかり元気になりましたか」</p><p class="ql-block">「はい、先生、しばらくです。おかげさまで元気になりました」</p><p class="ql-block">恥ずかしそうに顔を上げて、私を見た劉の目は濡れていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「劉さんのおうちは黒龍江省でしたね?」</p><p class="ql-block">「おうち?・・はい私の故郷は黒龍江省です」</p><p class="ql-block">「お父さん、お母さんはお元気ですか?」</p><p class="ql-block">「はい、お元気です」</p><p class="ql-block">彭玉雲がことばをはさんだ。「お元気です、おはいらないと思います。劉さんは長い間日本語た話すチャンスがありませんでしたから、少し忘れました」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉も気がついて「私は日本語みな忘れました」といって淋しそうにうつむいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私が、「かまいませんよ、気にしないでどんどんお話しょう。すぐなれてきますよ。中国語でもいいです」というと、劉は中国語で一気にしゃべりはじめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉紫芬がノイローゼで故郷に帰って療養することになったのは三ヶ月前のことである。当時は日本語の習得がうまくいかないので精神的にまいったのだろうと思っていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">確かに黒龍江省の僻村出身の劉は中国語そのものにも強い東北訛があって、口が重かった。日本語の会話の練習の中でも、"わたし”を必ずわだし”と発音したり、"見たことがある”というのを"見ったことがある”というように発音して、不要な濁音、促音が多かった。しかし、今こうして話してみると劉がノイローゼになったのは日本語の学習についていけないことが主たる原因ではなかったことに気づかされた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉は「すべての基本は毛沢東思想の学習です。私は毛沢東思想をしっかりと身につけなければならないのにそれを怠っていました。ですから日本語の学習もおくれました。これから私は毛主席の良い学生になって思想を改造し、国家の要請に答えるようにがんばらなければなりません」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">中国では「又紅又専」ということがよく言われていた。思想的にもしっかりとしたものを持ち、しかも、専門技術も高い水準のものを身につけているという意味である。革命家の資質を言いえて妙である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉紫芬の話をききながら、私は一つの危惧の念を抱かざるをえなかった「私は早く体を丈夫にして文か大かくめいをやりぬくためにがんばらなければなりません」と決意を述べる劉だが、はたして、今の文か大かくめいのやり方の中で、ほんとうに、「又紅又専」の若者たちが育っていくのだろうか。文か大かくめいの中で強調されているのは、毛沢東思想の絶対化であり、毛沢東の主張の一言一言を、寸分たがわず守るということであった。文化芸術の分野だけでなく、党と国家のあらゆる機関と個人が批判・非難、そして糾弾の対象とされていた。次々とつき崩され打ち壊されていくものは数限りなくあったが、打ちたてられるものはなかった。何をうちたてるのか、どううちたてるのか、を具体的に示すものは文か大かくめいの中に見い出すことは困難であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">目の当りにする文か大かくめいのあり様は、私の目に「精神主義」「清算主義」の印象を強く与えた。文か大かくめいの全貌はつかめなかったし、その是非はにわかに断定はできなかったが、その「非民主的な」やり方にはとても同意できなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉紫芬の私を見る目は若い女性が若い異性を見る目であった。こうした生身の人間がほんとうに生き生きと生かされていくには、主体性と民しゅ主義が久かせぬ条件なのではなかろうか。私はこの文か大かくめいの中でその条件が失われつつあることを強く感じはじめていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私が「劉さんが自分の思想をしっかりしたものにしたいと決意していることは大変大切なことだと思います。同時に、私たちが人民に奉仕するということは、具体的なことです。劉さんの場合、しっかりと日本語を身につけて立派な通訳となって働くことではないでしょうか。それが「紅専』(又紅又専の略)の意味ではないでしょうか」というと、劉はうなずいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">傍の彭玉雲がすかさず「先生は、日本語の面ばかりでなく、思想面でも援助をしてくださいました。私も先生のいわれる通りだと思います」と言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉紫芬の表情に重苦しい線が一本走った。私は劉の気は治らないのではないかとふと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>長期休講 =学校閉鎖=</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">六六年三月二八日に毛沢東が「地方は孫悟空をだし『天宮』を攻めよ」と党中央宣伝部や北京市党委員会などの打倒をよびかけて文か大かくめいの号令をかけた。はじめて紅衛兵が誕生したのは五月に北京の清華大学だった。それにつづいて、紅衛兵運動はまたたく間に全国の大学、専門学校、中学校(日本の高等学校)にまでひろがっていった。六月には、私たちの住む大連にも紅衛兵が続々誕生していた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちの大連日語専科学校で、学生たちが文か大かくめいをする”かくめい晩会”を開くことになり、日本人教師も招待された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夕食後、学校の講堂に行ってみると、舞台の背景いっぱいになるような毛沢東の大きな顔写真が飾られていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">出しものは、歌、おどり、手品、漫才、寸劇…・・・・・と多種多様だったが、一様に文かくを識え、毛沢東とその思想を讃えるものばかりである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">最後の演目「東方紅」が最上級生の三年生によって斉唱された。学生達は声を思い切りはりあげて歌った。音程もリズムもまちまちである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「東方紅」は毛沢東を讃える歌である。学生達の心には、真赤にもえる太陽のように中国人民に光を投げ与えた毛沢東に対する敬愛の念がうずまき、どうその心を表したらよいのかわからないほどの思いを込めての歌なのだろうが、この光景は私には大変なショックだった(保育園児の歌の方がまだきける・・・•・)と思った。まるで歌になっていない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">帰り道、並んで歩いていた土井大助さんの奥さんが私の顔をのぞき上げながら、眼をまんまるにし、口をへの字にまげて、そっと「すごいわねぇー」と言った。私が「感動しましたデス」と答えると、彼女は「まーた、鈴木さんのオトボケ」といって低く笑った。私もつられて笑った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉校長が大字報(壁新聞)で批判されたという噂が伝わってきたのはそれから間もなくである。それにつづいて、教務主任が批判され、やめさせられた、誰それの姿が見えなくなった、などのニュースが続いた。</p><p class="ql-block">それからいくばくもなく私たちの大連日語学校は長期休講となった。学生達は殆んど紅衛兵に組織されていったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>大連日本人村</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学校が長期休講となってから、私たち日本人教師はいつ再開されるかわからないその日のために”待期”していた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">南山招待所に住む日本人は大連生れの六人の子供を含めて五十七名であった。私たちは、これを“大連日本人村”と称していた。突然の休講で暇をもてあますようになった村では、他々な企画が活発になされるようになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">村の新聞を発行し、スポーツ大会をし、さまざまな学習会を企画した。野球講座、歴史講座ーこれは専門家の徳武さんが講師をつとめた。俳句会の講師は大分出身の田口次郎さんである。新開発行は池上さんがあたり、詩の講座は詩人の土井大助さん、文学講座は井伏鮮二の弟子の米田さんが担当•••といったように人材にはことかなかったのである。私も、“県濁音と関東の子音脱落について"の発表をしたりした。子どもたちの勉強をみてやる係には四人の独身者がなった。英語は英語教師だった海野君、国語は私、数学は五島さん、千田さんは遊びを組織するのが巧みだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">だが、なかなか学校は再開されなかった。まったく環境のちがう異国で暮らすということは、それだけで大変ストレスが溜りやすい。まして、毎日の決められた仕事がないということは異常な心理状態を生み出す。子どもたちは最大の被害者であったが、大人たちの欲求不満も一段と高じてきていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そうしたことに長けている阿部さんと私は、街へ出かけていっては日本人好みの食料品を見つけてくることも一つの仕事となった。するめ、海苔、いくら、アイスクリームなどは村のみんなに喜ばれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ある晩、私は、にわか喫茶店の経営者になってみたりした。自分の部屋の電灯の覆いに紫の風呂敷を被せると光がやわらげられ、淡い紫色の光が日本の喫茶店を偲ばせる雰囲気をつくった。飲みものは、茅台酒、清酒、ビール、サイダー、山葡萄酒、などを用意した。山葡萄酒とサイダーをカクテルすると結構いける飲みものとなって、大人にも子供にもよろこばれる。おつまみには、貝柱や腸づめ、サラミソーセージなどの他に、手作りのするめの醤油漬けなども準備した。音楽効果は阿部さんのポータブルプレイヤーで東海林太郎のLPを流した。私は、Yシャツ、玉村さんの奥さんに作っていただいた蝶ネクタイをつけて、喫茶店“風和”の一日マスターである。高校二年生のお嬢さん、陽子さんが小さなエプロンをつけて給仕役をつとめてくれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その晩村の全員が客となって来てくれた。ほう、なかなか雰囲気が出てるね」「は、そうですか、ありがとうございます。お飲みものは何にいたしましょうか?」「このするめはなかなかいい味だね、あとでつくり方教えてよ」などという客もあった。子どもたちはアイスクリームとカクテルに集中した。その夜は遅くまで楽しくやった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この他、誕生会をやるなど色々工夫はかさねたが、時が経つにつれストレスは村全体に広がっていった。子ども同士のけんかが多くなり、大人は病人が続出していった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学校は再開されず、とうとう再開されないまま夏休みを迎えてしまったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">熱帯夜=人形の汗の跡</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この年も、夏休みを利用して二週間ほどの旅行に招待された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">健康のすぐれない者や乳呑み児や幼児をかかえている者を残して、湖南、杭州、上海の旅へと出発した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連を発って四日目の昼、長江(揚子江)の大鉄橋を渡り武漢へと入る。月夜の中におぼろに浮ぶ洞庭湖を右手にかすめながら列車は南下をつづける。五日目の昼近く、八月初旬のうだるような暑さの長沙に着いた。そこは、毛沢東が師範学校の学生時代をすごし、農民運動を組織する根拠地としたところである。幾つかの革命遺跡を見学し、長沙から百キロ程離れた韶山にある毛沢東の生家を見学した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">次の旅行先杭州に向かう列車の中は、私の体験したことのない暑さだった。あまりの暑さに身のおき場所もないほどだった。杭州の駅に列車がすべり込み、ホテルへ向かうバスの中で、通訳の催さんから「ホテルには冷房設備がある」と言われて一同ほっとした。気温三十八度である。ホテルの玄関にバスが停車するのを待ちかねて、ホテルの玄関に一歩足を踏み入れたとたんに、すうーっと涼気が体を包んだ。一同はほーっとため息をついて、荷物を投げ出すと部屋割も待ちきれずにどっかとロビーのソファーに腰をおろしてしまった。しかし、涼しいと感じたのはほんの数分だけだった。またまたうだるような暑さで、汗が止めどなく流れ出す。温度計をみると三十五度をさしている。暑いわけである。クーラーをかけて尚外気より三度しかひくくないのだ。通訳の催さんは「あまり急に冷やすと体に毒だから」と説明した。特に冷房器の性能が悪いからではないというのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その晩は暑さのためになかなか寝つかれなかった。夜半すぎても気温は一向に下らない。クーラーが作動しているのに三十三度より下へは下らないのだ。ベッドの上には蘭草で編んだ薄縁が敷いてある。もちろん掛け布団も、毛布もない。バスタオルが一つあるだけである。パンツ一つになって、腹の上にバスタオルをのせて寝るのだが、体からは汗が玉のようにころげ落ちて止まらない。薄緑の上には人形の汗の跡が黒々とついている。それでいて、べとついた感じはまったくないのは空気が乾燥しているせいだろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">あけ方三時近くまで寝つかれなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>二重通訳</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">杭州は西湖など風光明な観光地である。しかし、に違って西湖の水は澄んでいなかった。湖の周囲にある織物工場などの汚水が流れ込むためだと通訳が話していた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">杭州は風景の他に刺繍や細工物でも有名な土地である。刺納工場の見学に行くと、そこは見事な刺繍布の山であった。毛沢東の肖像が刺繍されたものが八割方を占めていた。これが今一番売れていて、生産が間にあわない状況だそうである。私は、マルクスとレーニンの肖像の刺繍をそれぞれ一枚ずつ求めた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">次に、労働英雄として名高い扇子づくりの名人の工房を訪ねた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">工房では、白いあごひげをたくわえた八十才ほどの老人が薄い扇子の骨に彫刻をしているところであった。ピンクに染められた羽毛や、孔雀の尾羽などで飾りのつけられた豪華な扇子が工房いっぱいに飾られていた。そして、そのどの扇子の骨にも細密な彫刻がほどこされており、素人目にも高価なものであることがわかった。特に、その彫刻のできばえは一流の芸術品であることを感じさせる見事なできばえであった。わたしは、それまで、中国での労働英雄という称号の意味は、いっしょうけんめい、献身的に働くという意味にとっていたが、こうした分野での"労働英雄”の意味は、日本での人間国宝”とか”重要無形文化財”という意味をも持っていることをはじめて知った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">同行の日本人はその目のさめるような芸術品の山に感嘆し色々と質問をした。崔さんが通訳をし、老人がゆっくりとした口調で答えたが、崔さんは一向にそれを日本語に訳してくれない。その老人の中国語は訛が強くて私たちにはさっぱり聞きとれなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「崔さん、この方はなんと言っているんですか?通訳してください」と促すと、崔さんは照れくさそうに頭をかきながら、「いやー、このおじいさんの中国語はさっぱりわかりません。私の質問したことはわかるらしいのですが・・・..こまりました」と言った。そこへ丁度うまい具合に、二十才ぐらいの娘さんが入って来たのをつかまえて、崔さんが通訳をたのんだ。私たちの質問を崔さんが北京語に、崔さんの北京語をその娘さんが杭州説の中国語に言いかえてその老人に伝え、老人の答えはその逆の順に伝えられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">同じ中国の中でも、ことばがまったく通じないのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">さすがに若者たちは教育をうけているので、北京語を話すことができるが、学校教育をうけることのなかった年齢層の人たちにとって、北京語は外国語とあまりかわらないのであった。</p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>ジパングのルーツ</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">杭州郊外のお茶で有名な龍井の人民公社へ見学に行った。気もよい。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ここでは、これが最高級の緑茶だというお茶をごちそうになった。それは玉露である。茶葉は日本の茶のようにはよりをかけてなかった。つぶぞろいの若い葉がそのままの形で湯呑茶わんの底に沈んでいる。鮮やかな緑である。香気もよい。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この人民公社の幹部の説明によると、日本でつくられいる玉露の原木はここから輸出されていったものだとい私はそんなものかと思って聞いていたが、私が興味をひれたのは、その幹部が話す中国語の中に、“ズアバン"ということばがくりかえされることであった。ことばの流れからすると、"日本”のことを言っているだが、なぜこの人は日本をこんな訛った英語で言うのがうーとはじめ思った。しかし、二度、三度とズアバンと聞いているうちに、はっと気がついた。彼は英語でジャパと言っているのではない、中国語で“日本”と言っていのである。北京語では日本をリーベン(リは巻舌、ベンバンに近い発音)と言うが、長江下流南部ではズアバン発音しているのである。マルコポーロが東方見聞録で日をジパングと称しているのは、多分この地方での日本のび名による記述なのではないかという気がした。ズアバはジパングに大変よく似ている。ここはジパングということばのルーツなのかもしれない。とても壊しいことばを聞いたような気がした<b>。</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>上海の少年宮</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">上海での宿は上海でも最も賑やかな通りの一つである南京路にある和平飯店であった。黄浦江がすぐ目の前にある。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">上海はさすがに国際都市である。和平飯店にはさまざまな外国人が泊っていて、部屋へ昇降するエレベーターでよく会った。フランスのバスケットチームとか、ベトナムの女子卓球選手団とかにもあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">背の高いフランス人たちの鼻音の多い抑揚に富んだ会話は羨望を感じさせるような品位があり、ほっそりとした体に髪を長く垂らしたベトナムの少女たちの頭のてっぺんから出すような甲高いおしゃべり声はまるで小鳥たちのさえずりのように可愛らしかった。まだこのころまでは中国とベトナムの関係は正常さが保たれていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">南京路を四キロほど西に行くと上海市少年宮がある。日本の児童館にあたるものだが、その充実した施設には目をみはらされた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">学校を終った子どもたちはここに集り、それぞれ自分の希望する趣味に従って、さまざまなクラブ活動をしている。合唱クラブ、絵画クラブ、工作クラブ、演劇クラブなど、みな専門の指導員がついて指導をしている。少年少女たちの夢を育てる楽園を思わせる、正に“館”ではなく"宮”である。中国が社会教育に力を入れていることを感じさせられる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">上海のそれほど立派な建物ではなくても、各地の都市に少年宮が建てられており、少年宮のような集中施設のないところでも、水泳クラブとかサッカークラブ、音楽、絵画などのクラブ活動が行われており、大人向けにも業余学校が各地にある。業余学校というのは、仕事を終ってからの自分の時間に学ぶ学校で、ここでも、学問的なものだけでなく、音楽、体育などの幅広い文化教養を身につけ、技術を身につけ練成するところである。中国の経済状況から考えれば、これほどの社会教育の充実ぶりというのはおどろくほかはない。上海市の少年宮に来てみると、まるで富裕な経済大国に来ているような錯覚すら起してしまう。上海の子どもたちがとても羨ましく思えたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">うだるような夏の旅から、八月上旬の大連に帰った。日差しは強いが柏場の並木の木陰は涼しく、半袖シャツでは涼しすぎるぐらいだ。文革の動きは地方も活発化し、学校が再開される気配はなかった。 </p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>ゆきずりの人</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">夏の旅行の後、体の調子がどうもすっきりしなかった。大連日本人村の子どもたちとキャッチボールをして遊んでいるうち、急に気分が悪くなり吐いた。間もなく九月になろうとする午後である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連鉄路医院に入院することになった。油ものが鼻につき、食欲がなく気だるい。四十才を少しすぎた女医形大夫(大夫は医者のこと)は肝炎と診断したのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">病院の食事には辟易した。とりのももの唐揚げの大きいのを二本と卵焼き二ヶが必ず出てくるのである。これを食べないと病気が治らないから食べろと無理矢理食べさせられた。私は鼻をつまんで「国際連帯、国際連帯」と呪文を唱えながらがんばって食べた。しかし、三日目にはとうとうがまんができなくなった。私は看護婦の孫さんに「とても帳を通らない」と訴えた。孫さんは三十才、女優の藤村志保に似た小柄な美人でやさしい人だった。担当医の劉大夫を呼んできた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">背が高く眼鏡をかけた若手医師の劉は、私の訴えをうなずきながら聞いていた。その日の夕方から食事が変えられた。おかゆを貰い、そのころ同じ病院に入院していた土井さんから梅漬の紫蘇の葉を乾燥させて粉末にしたものを貰って、それをふりかけて食べた。とてもおいしく、食欲が進んだ。しかし、体調はあまりよくならなかった。て、それをふりかけて食べた。とてもおいしく、食欲が進んだ。しかし、体調はあまりよくならなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">土井さんは間もなく退院し、帰国することになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">病院でのくらしは退屈であった。私の入院している病棟は外国人専用の病棟になっていた。私の外に数名の外国船員が入院していた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">盲腸の手術をしたアナスタシスという二十五才のギリシャ船の若い船長、ブルガリアの船員のステファンなどがいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ステファンは身長一八〇センチ以上、体重も一二〇キロはくだらないと思われる大男である。他にイギリスの船に乗っているという黒人もいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">アナスタシスはロシア語と英語が話せる。ステファンはロシア語とドイツ語、黒人の船員は英語を話せる。私たち四人は不自由な言葉を使いながら、チェスをやったり、それなりのおしゃべりをしたりした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">トイレからものすごいうなり声が響いてきた。何事だろ病室からとび出してみた。しばらくして、ステファン巨体が、顔をゆがめ額に油汗をいっぱいにじませてよろと出てきた。ステファンは痔の手術をして間もないのでった。ところが、このステファンは、寝る前に必ず生にんにくを一つぶ食べるよく眠れるのだ」そうである。寿に悪くないかといっても、それは関係ないと答える。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">このステファンに乗っている船はどこの国の船かと聞くと「ブルガリアンシップ」と大声でどなられた。ステファンは「もちろん、ブルガリアの船だ」と答えたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私はうかつな質問でステファンのプライドを傷つけたようである。私はブルガリアが黒海を経由して地中海に続いていることを忘れていたのである。ステファンは四十五才位で、彼の弟は呉の造船所で働いているとのことだった。エンジニアだそうである。社会主義国のブルガリア人が日本の造船所に来ているなどということは思いもよらないことであった。世界の経済的なつながりというものが複雑にからみあっていることを知って今さらながらおどろかされたものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">九月も半ばにさしかかった午後、ステファンと病院の庭に散歩に出た。彼の尻も順調に回復していて、散歩もできるようになったのである。にんにくは寿の回復のさまたげにはなっていなかったようである。高台にそびえるこの市内で一番大きい病院は広い庭をもっていた。庭の西はずれに行くと大連の市街が一望に見下せる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ステファンは「ポピュラチオン?」(人口は?)と聞いた。私は「ツバイ、ミリオン」(二百万)と答えた。彼は大きくうなずいて、「グロッセ、シュタット」(大きな街だ)と答えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">突然私たちの耳に賑やかな銅鑼や太鼓の音が響いてきた。はるか西の方の通りを赤旗をひるがえし、銅鑼や太鼓を打ちならし、歌声を響かせながら行進をするデモ隊の姿が近づいてきていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しばらく眺めていたステファンは「フェステバル?」(お祭りか?)と怪訝そうな顔で尋ねた。「レボルチォーン」(革めいだ)と私が答えると彼は片方の眉毛をちょっと上げて「オー、レボルチォーン」と言って、その大きな肩をすくめてみせた。紅衛兵のデモ行進が近づくにつれて、歌声もはっきりと聞きとれるようになった。その先頭に三角帽子をかぶせられ、両腕をねじあげられた男がいるのが見えた。私は背すじを寒いものが走るのを感じた。噂や新聞では知っていたがこうしたつるし上げの様子を直接目にするのははじめてであった。</p><p class="ql-block">デモ隊は病院の真下で左折し、大連駅の方に向っていった。デモ隊の歌う「我們走在大路上(我々は大道を進む)」の歌声と「打倒反動派」「毛主席万々歳」のシュプレヒコールの声がいつまでも耳の奥底に残って消えなかった。また、きょうも、大連駅前か大連市場あたりの繁華街の一角で、凄惨な糾弾集会が開かれるのであろうと思うと胸が苦しくなった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ステファンはどんな思いで見ていたのだろうとふと彼の顔を見上げたが彼の表情には何の変化もあらわれてはいなかった。むしろ、大連のさわやかな初秋の風に心地よげに吹かれているようにさえ見えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼にとって、「フェスティバル」も「レボルチォーン」もさしたるちがいのない、遠い国の一風物にしかすぎないのかもしれない。もっとも、彼は中国にとって、あるいは文化大革命にとってゆきずりの人でしかないのだ。中国と深いまじわりを持つために来ている私たちとはまったく別な人種なのである。そのころ、文か大かくめいの本質についてはもちろん、現象そのものについても対外的には殆んど知らされていなかったので、ステファンに文化大革命についての予備知識はまず無かっただろう。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">あるいは、ステファンはデモの先頭に引き据えられていたトンガリ帽子の男に気がつかなかっただけなのかも知れない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夕方、大連日本人村から海野君がやってきて、明日午後三時に会議があるので招待所に来るようにと伝えて行った<b>。</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>盲従者の闖入</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">数日前、北京在住の海野君の大学の先輩Kが、こっそり大連に来て海野君を大連賓館に呼び出し、「今の日本共産党の路線はまちがっている。北京の大部分の日本人は毛沢東路線を支持し、文か大かくめい支持してたたかっている。君もわれわれと一緒にやるべきだ」と毛沢東路線への服従を迫った。海野君はこれをきっぱりと断わり、すぐ大連日本人村の責任者の吉田さんに報告した。時をうつさず、吉田さんら代表三名が大連賓館のKのところに出かけていき、組織原則を逸脱したKの行為を批判した。三人の代表の訪問をうけたKは、タバコを天井向きにくわえて傲慢な態度を装ってはいたが最後までふるえがとまらなかった。Kの眼の色は変わり、吉田さん達の説得には耳を傾けることをしなかったが、大連には指一本差せずに、北京へと逃げ帰っていった、ということが会議の場で報告された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">Kが北京から大連までやってきて、こうした工作をするには、中国当局のなんらかの庇護をうけてのことにちがいなかった。文化大革命は中国の国内問題にとどまらないものとなったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私たちは文か大かくめいについての正確な評価をする必要に迫られたのである。大連日本人村の緊張は一段と高まった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>砂間氏の大連訪問</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">このことがあって間もなく、北京駐在の日本共産党代表砂間一良氏夫妻が大連日本人村を訪れた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">砂間さんは、大連の日本共産党員たちが、日本の党の自主独立の路線をきちっと守って団結していることを大変よろこび、今北京で起っていることと文か大かくめいに対する見解を細かに報告した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">北京では、日本の党員の大部分が文か大かくめいを礼賛し、毛沢東思想を絶対化して、日本の党を攻撃し、「革めいは最力だ」と叫んで、日本の党の路線を守って毛沢東路線に盲従しない者に対して最力で襲いかかっている。中国局も、それを見て見ぬふりをするだけでなく、彼らの手引きさえしている。八月に新しく赤旗北京特派員になった紺野純一さんに対する北京飯店での聴涛、伊佐ら学生四人による二時間にわたる凄惨なテロの報告。砂間さんと紺野さんの連絡を妨害する中国当局の様子などの数々の報告に、私たちは憤りの戦慄をおさえることができなかったものである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そうした中でも、まだまだ多くの専門家や学生が盲従せずにがんばっていることも報告され勇気づけられた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>帰国の方針を決める</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">情勢が緊迫する中で私の体調は急速に好転し、間もなく退院をした。「再来不好」(もう来てはいけませんよ)という形大夫や孫看護婦に見送られて南山招待所に帰ったその夜から、砂間さんの報告をうけて討論がはじまった。この情勢の中でわたしたちはどういう態度をとるべきか、帰国すべきか、このままふみとどまるべきか・・・・・・。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「まだまだ大丈夫なのではないか」「もう少しいて中国語をマスターしたい」「いや情勢はそんなに甘くない。すぐ帰国すべきだ」「このままいても、日中友好のかけ橋になる土台はないのではないか」「情勢をもっと深く、しっかりとらえなければならない。情勢認識の一致が基本ではないか」などさまざまな意見が出された。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この私たちの重大な態度を決定する話し合いでも、それぞれがかかえる個人的事情や思惑が当然のことながら反映してくる。物心両面から不自由な外国生活に辟易していて、一も二もなく帰国に賛成する意見もあれば、日本の家を整理して来ていて、帰国しても住む家も職のあてもない(ほとんどの人はこうだったし、中国にいれば給料も生活も保障されているのだが)ことから、情勢をそう緊迫したものとはとらえない意見として出されることもあった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">しかし、中国の文か大かくめいの現状は、文か大かくめいを礼賛し、毛沢東路線に従わない者に対して外国人であろうと徹底した干渉と攻撃を加えてきており、国際関係の基準である内部問題への不介入の原則をわれわれの側がどんなに守ろうとしても、もう既にその条件がない。このまま中国に残れば、毛沢東路線に追従礼賛するか、それとも路線問題で直接激烈な闘争をするようになるかの二つに一つの道しかない。現時点では、わたしたちの中国の社会主義社会建設の援助と日本中国両国民の友好のかけ橋となる任務は中国にとどまることによっては遂行できない情勢にある。現時点でのわれわれの任務は直ちに帰国することであるという結論に達した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">党員は一日の討論でこの結論を出すことができたが、家族を含めた大連日本人村全員の一致した結論とするまでには更に二日間の話し合いが必要だった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">そのころ、日本人が会議をしている部屋近くの植え込みなどに、黒い人影を見たり、会議室のドアの外に何となく人の気配を感じることが多くなっていた。村付けの通訳や世話係の動きも気になるものが目立ってきていた。わたしたちは会議の内容が盗聴される危険を感じていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">この三日にわたる重大会議の開かれている間中、日本人村の小・中学生たちは会議室のまわりで遊びながら中国人が近づかないように見張り役をつとめた。わたしたちは彼らを中国の少年先鋒隊に対して民主少年団「民少」と勝手に名づけてよんだ。大連の「民少」は立派にその役割を果たしたのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは久々に祖国の両親あてに手紙を書いた。殆んど失明状態にあるという母の姿を瞼に浮かべながら中国のくらしのことなどを書いたが、帰国することにはふれなかった。ただ「近いうちに、うれしいお知らせをすることができることになるかもしれません」とだけつけ加えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>日本人は銃を取ってたたかえ</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">帰国の準備が進められた。</p><p class="ql-block">アカシアの葉もすっかり色づき、澄み切った秋空の高い日々がつづいた。朝夕の冷え込みも強くなってきた。十一月初旬のある夕方、突然ドアの外に複数の人の気配を感じ、読んでいた本をテーブルに置いた。ノックの音がして、陳、呂、張の三人の男子学生が入ってきた。「失礼します。わたしたちは遊びにきました」と言って、それぞれに握手を求めてきた。わたしは「やあ、いらっしゃい」と言いながら、彼らの油っこい手を握り返して、ソファーに掛けるようにすすめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らはみな共青団(共産主義青年団)の幹部達である。張は私と二才しかちがわない、他の二人は五才年下である。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「先生は日本に帰られると聞きました。私たちはとても残念です」と呂が切り出した。日本語教師がいなくなると学校が困る。学校はもうすぐ再開される。ぜひとどまってほしい・・と訴えた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、長い間学校が閉鎖されていて再開の見通しは学校の責任者からは伝えられていないことを話すと、「先生は帰国しても生活ができないのではないか。反動派の弾圧をうけるのではないか」などとわたしの動揺を誘った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らは、毛沢東は世界最高のマルクス、レーニン主義の指導者であり、毛首席が直接指導している文か大かくめいはすばらしいといって、文か大かくめいへの私の礼賛を求めた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">私は、吉田さんが国慶節の時、北京で毛沢東に盲従する日本人に暴行を受けたことを話して、「吉田先生は北京で、文化大革命を支持する日本人たちから、バスの中で暴行をうけました。文化大革命は中国の国内問題ですから私は何も言いませんし、文化大革命についてはよくわかりません。しかし、外国の問題をよくわからない、支持しないということで暴力で攻撃するという人々をあなた方はどう思いますか?」と問い返すと、一瞬張の眼鏡の中の眼が動揺を見せた。しかし、呂と陳は興奮を押え切れずに爆発的に叫んだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「日本共産党の方針はまちがっています。日本人民は今すぐ銃をもって立ちあがらなければなりません!毛主席は、鉄砲から政権が生れるとわたしたちに教えています!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、カーッとのぼってくる血をおさえながら言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「陳さん。香港はどこの国の領土ですか?」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「もちろん、中国人民のものです!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「なら、あなた方は銃を持って、今すぐ香港をとっていきなさい!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「それは、困りますー」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">三人の学生たちはほんとうに困ってしまって顔を見合わせた。張は動揺をじっとおさえている。呂と陳は膝の上においた両の拳をわなわなとふるわせている。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">大連滞在二年の間に学生達が日本人教師の住居を訪ねてきたのは後にも先にもこの時唯一度だけである。というのは、それまでは中国人と日本人の生活程度があまりにもちがうということで、当局が許可していなかったのである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p> <p class="ql-block"><b>たった一人の見送り</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちは何組かにわかれて帰国することになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">すでに数家族が大連を離れ、日本人村の人口は三分の一ほどに減り閑散としていた。十一月の下旬に入り、日によってはオーバーの必要な季節となっていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その日、わたしが大連に別れを告げた朝はどんよりとしたくり空だった。わたしたちの組は大分県出身の田口次郎さん夫妻と独身女性の五島さん、それにわたしの四人だった。中国側からは職員も学生も誰一人見送りに来なかった。王という通訳が一人添乗しただけだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">列車の出発はもうすぐだ。わたしは列車のデッキから長い長い大連駅のプラットホームを眺めていた。プラットホームに殆んど人影はなく寒そうに見えた。もう二度とこの地を訪れることはなかろう。大連での二年間、さまざまなことがあった。学生達とすごした日々のことがあれこれと思い浮かんでくる。「さらば、さらば大連。さようなら大連!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ピーッ、するどい汽笛が発車を知らせる。ふとわれにかえったわたしの眼にこちらに向かって走ってくる一つの人影が映った。「誰だろう?」中国人である。息せき切ってかけつけてきたのは、わたしのクラスの学生、胡胤であった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ゴトッ。列車はゆっくりと走り出す。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしの体中の血がぞくぞくと逆のぼってくるのを感じた。来たのだ。学生が見送りに来たのだ。たった一人だが見送りに来たのだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">長身で細面、眼は細く鼻の下にうっすらと無精ひげを生やしている。胡胤は額からぽたぽたと汗を落しながら手をのばす。わたしも手をのばして、胡胤の大きな手を握った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「胡胤さん、見送りありがとう。お元気で、さようなら」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「老師、再見、再見了!」(先生、さよなら、さようなら)</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">湖胤は日本語のあまり達者な学生ではなかった。しかし、彼が日本語で別れのあいさつをしなかったのはそのせいではないなと思った。わたしが、日本語だけで別れのあいさつをし、中国語を決して使わなかったのと同じ気持ちなのではないかとふと思った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">胡胤は列車がプラットホームを離れてしまってからも手を振りつづけていた。わたしもデッキから手をふりつづけた。胡胤の姿が豆つぶのように小さくなる。列車は大きく右旋回しはじめる。左側からレンガ工場の建物がすーっと迂づいてきて、黒い点になった胡胤の姿を大連の駅舎もろとも視界から遮ってしまった。眼の前をベージュ色のレンガの壁がすごい勢いで左から右へ流れていく。わたしは大きく息を吐きながら両肩を深く落とした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>北京友誼賓館での脅迫</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">先発の人たちからの連絡によると、北京滞在中にさまざまな帰国妨害がなされたということである。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">北京でのホテルは友誼賓館である。帰国の手続上イギリスの領事館で香港通過のビザを出してもらわなければならない。わたしたちは通訳の王さんを通じて、イギリス領事館への手続申請をした。この手続は通常一日ですむことである。二日すぎても通訳の王さんは何も言ってこない。この賓館(ホテル)の中には毛沢東礼賛に血道をあげる日本人盲従分子がわんさといる。うかつにはしていられない。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">二日目の夕食後ホテルの売店で買物をしていると突然うしろから、しゃがれた声で呼ばれた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「同志」(もし)</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ふりかえると、わたしのすぐうしろに、大男がおおいかぶさるような形でぬーと立っていた。Sである。Sは福岡の大学の助手をしていた男で、ほぼわたしと同じごろ中国に来ており、北京で働いていた。数度の北京滞在の間に親しくなった日本人の一人である。彼はわたしをじーっと見据えるような眼をした。わたしも彼の眼をじっと見た。Sの顔は青ざめて生気が無かった。眼に光無く皮膚もかさかさしていた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「帰るんだって?」とSはかすれた声で言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「帰る。君は帰らないのか?」とわたしが言うとSはよろりと一歩さがりながら、いやいやをするように首を左右に二度ふった。そこでしばらくわたしをじっとみていたが、やがて、「再見」(さいなら)と言うとくるりと背中を向けて去っていった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは、Sが北京で毛沢東一派の盲従分子になってしまっていることは知っていた。一八〇センチ以上あるSの去っていく背中は、いかにも力無く、大きな根無し草のように見えた。わたしはこの時、憎しみではなく憐みの情を抱いている自分に気がついておどろいた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">三日目、王さんに早く帰国したいので手続をいそいでほしい、どうして遅れているのかと問いただすと、彼は「わたしは直接はわからないので、ホテルの主任に聞いてみます」という。しばらくして帰ってきた彼は「イギリスの領事館が休みなので手続ができないのだそうです」と伝えてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">更に二日待っても一向にらちがあかなかった。盲従分子たちからの直接的な攻撃はまだうけていないが、食堂や売店ですれちがいはしないかといらぬ神経を使う。長居は無用である。タクシーを呼んでイギリス領事館に直接行ってみることにした。領事館の受付の中国人女性にどうして三日間も休みだったのかと聞くと、「休んでいない」という答えだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">田口さんは「これは重大なことだ。われわれをだましていたのだ。抗議しよう」と言った。わたしは「われわれの任務はできるだけスムーズに帰国することだから、抗議はさしひかえた方がいいのではないか」と考えをのべた。結局抗議することになった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">通訳の王さんを通じて、ホテルの劉という主任に抗議をした。劉主任は他をなして抗議を拒否した。「われわれ中華民族は大人だから、ウソなどは決してつかない」というのである。そして、逆に、わたしたちの態度を非友好的だと非難した。その場はもの分れに終った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">その夜九時近くに、通訳の王さんが来て、「お話があるので田口先生の部屋に来てください」と言った。手荷物の整理をしていたのを半ばにして、わたしは田口さんの部屋に行った。そこには既に劉主任の他三人のホテルの幹部が来ていた。間もなく五島さんも入ってきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉主任は「坐下」(すわれ)と椅子を指差した。王さんは「かけてください」と通訳をした。わたしはそれには答えず、劉主任をまっすぐ見ながら問い返した。説什么?」(何といったのか?)劉主任の頬がピクリと動いた。そして言った「請坐」(おかけください)「謝々」(ありがとう)と言ってわたしは腰をおろした。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉たちの主張はこうだった。われわれ日本人の態度は大変失礼で、非友好的だ。ひとつは、大連から北京への列車の中で、田口さんが通訳に"毛沢東語録”が欲しいと言ったので、列車を臨時停車させて調達してきたのに、田口さんはこれを受けとることを拒んだ。これは大変失礼で非友好的なことだ。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ふたつには、香港ビザの手続きに関して、中国人がウソつきだと言ったが、中華民族は大人だからウソなど決してつかない。なんらウソなどついてないのにウソつきよばわりするのは大変非友好的だ。この二つの非友好的な態度をとったことに対して謝罪文を書け、というものであった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちもこれに反論した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">毛沢東語録については、王さんが読んだことがあるかといったので読んだことがない「読んでみたいですねー」とは言ったが、欲しいとほ言っていない。それを王さんが聴きちがえただけだ。列車を臨時停車させて調達したなどということはわれわれのまったく知らないことだ、とつっぱねた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">また、ウソつきの問題については、ホテル側に聞けば、イギリス領事館は休みだと言い、イギリス領事館に聞けば休みではなかったと言っている。これでは、どちらかがウソをついていることになるではないか。われわれは何も事実に反していることを言っていない。と反論した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">彼らは、毛沢東語録の件についてはあっさり引きさがったが、ウソつきと言われたことについては執拗にくいさがって、どうしても謝罪文を書けとがんばった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしたちも同じ説明を何度もくりかえした。通訳を通しての話し合いなので、簡単な話でも往復するのに倍以上の時間がかかる。それに王さんの日本語の水準はそれほど高くなかったので、猶のことだった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">劉主任はうすい茶色の入った眼鏡の中の眼に角を立て、いら立ちを露骨にあらわしながら「中華民族は…・・・」と大声でくりかえした。そして、謝罪文を書かなければ、明日の飛行機はキャンセルする、日本へ帰らせないぞと脅迫した。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">もうすでに時は夜半零時をまわっていた。それまでは、中国側とのやりとりはリーダー格の田口さんに殆んどまかせていたが、こんな脅迫までする劉たちを許すことができなかった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">わたしは声を高めて言った。「ホテル側に聞けばイギリス領事館は休みだといい、イギリス領事館に聞けば休みではないという。こういうときに日本語では『どちらかがウソ言ってることになる』と言うのだ。この日本語の意味が理解できないのなら、もっと水準の高い通訳をつれてくるべきだ。われわれは、中国の要請で、日本の職業もなげうって、肉親や友人たちとも遠く離れて、中国の社会主義建設の援助のために来ている外賓だ。それに対して、こんな夜中まで失敬ではないか。しかも、飛行機をキャンセルするだの、帰国させないだのと脅迫までするとは何事だ。君たちの態度こそ非友好的というものだ。飛行機をキャンセルするならするがいい。帰国させないならさせないでいい。われわれも君たちの非礼な態度を工作単位(勤務していた大連日語専科学校)と日本の党にも伝えて正式に抗議をしてもらうことにする。とにかく、これ以上の話し合いは無駄だ。もう夜もおそいし、われわれは疲れている。君達はこの部屋から出て行ってくれ!」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">玉さんは必死に通訳をしていた。王さんが通訳し終わるか終わらないうちに、五人の中国人は一斉に立って廊下に出て行き、甲高い中国語で早口に何やら相談しているふうだったが、やがてどこかへ立ち去っていった。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">五島さんが「ほんとに飛行機キャンセルする気かしら?」と不安そうに言った。「おどかしにきまっているよ」とわたしが言った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">田口さんは「いや、本当にキャンセルするかもしれないよ。甘くは見られないんじゃないかなー」と言う。五島さんは不安をつのらせて、「どうする?」と声がくもってくる。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「おれたちは帰るんだ。飛行機をキャンセルしたり、帰国を妨害したりするのは中国側のやることで、おれたちは帰国するんだという姿勢でいるしかないんじゃないの」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「でも本当にキャンセルするかも知れないね」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「その時はその時さ。おれたちは名誉ある被害者になっちまうしかないね。そうなればそうで、偉大な中華人民共和国も歴史上に大きな汚点を残すことになるだろうから、われわれのようなペイペイを相手に、そこまでやるほど馬鹿とも思えないけど…・・。でも、ウソつきと言われたのはこたえたんだねぇー、あんなになりふりかまわず謝罪文を書かせようとしたんだからねぇ。謝罪文など書いていたら大変だったね。日本共産党員は大ウソつきだなんて大字報(壁新聞)に書いて貼り出されたりして、攻守所をかえるところだった。あぶないあぶない。とにかく、きょうは、ゆっくりお風呂に入って、ひげを剃って、荷物をかたづけて、明日の出発に備えよう」</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">それぞれ一人ぼっちの部屋に別れていくのはなんとなく淋しい気がしたが、めいめい引きあげた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">風呂に入り、ベッドにもぐり込んだのは午前二時過ぎだった。ぐっすりと眠った。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">翌朝、各部屋につけられた有線放送のスピーカーから流れ出る友誼賓館食堂の営業開始を知らせる音楽で眼がさめた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">初冬の北京の朝はすがすがしく明けた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">電話のベルが鳴る。受話器をとると五島さんのはずんだ声がひびいてきた。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">「お早うございます。今、王さんが来て、飛行機の時間が一時間早くなりましたって・・・・」。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">(完)</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一九八四年五月二十三日脱稿</p><p class="ql-block"><br></p> 尾声 <p class="ql-block">用铃木老师的一首诗,作为文章的结束吧!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><b>凡夫のはらわた</b></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">聖教徒のように</p><p class="ql-block">心の迷いを罪とするなかれ</p><p class="ql-block">決定的瞬間に</p><p class="ql-block">断固として</p><p class="ql-block">真実を行う魂を持て</p><p class="ql-block">それがプロレタリアートの心</p><p class="ql-block">人を愛する心</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">ある人は言う</p><p class="ql-block">「人間のやることはなんでもやる。</p><p class="ql-block">タパコを吸う、酒を呑む、・・・・・・もやる、ー」たしかに</p><p class="ql-block">これも共通の心だ</p><p class="ql-block">だが、一味ちがう</p><p class="ql-block">人間の、人間として生きる意味の深淵において</p><p class="ql-block">たしかに一味ちがうのだ</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">理論の正しさを真実とするだけならば</p><p class="ql-block">時として、その思想は</p><p class="ql-block">その時々の 弱点を切り捨てる</p><p class="ql-block">いとも簡単に</p><p class="ql-block">庶民の弱点さえ</p><p class="ql-block">己が弱点には寛容さえ示しながら</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">思い起こすまでもなく</p><p class="ql-block">オレの生れた故郷の人々</p><p class="ql-block">オレの教え子の数々</p><p class="ql-block">時としては政治的立場を異にして</p><p class="ql-block">競り合う対象であっても</p><p class="ql-block">人間としての共感を抱くことさえある</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">弱さや無知は</p><p class="ql-block">罪だと言い切れるのか!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">コクミンケンコーホケンシカクショー</p><p class="ql-block">医者にかかれば全額自己負担・</p><p class="ql-block">オレの友人は高血圧で働けず</p><p class="ql-block">国民健康保険税を滞納したために</p><p class="ql-block">市役所から送りつけられた資格証….</p><p class="ql-block">こんなものを後生大事にかかえて</p><p class="ql-block">資格証と保険証のちがいさえ知らずに</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">たしかに</p><p class="ql-block">無知とは言えるかも知れない</p><p class="ql-block">弱さをもっているとは言えるかも知れない</p><p class="ql-block">しかし、</p><p class="ql-block">ほんとうに言い切れるのか</p><p class="ql-block">弱さや、無知は罪悪だと</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">無知であったり</p><p class="ql-block">弱さをかかえていたりする無数の人々</p><p class="ql-block">この人々こそが</p><p class="ql-block">オレたちの共に生きていく仲間ではないのか</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">かつて、レーニンは</p><p class="ql-block">貧乏なるが故に無知であった革命大衆の略奪の罪を</p><p class="ql-block">弟子のカリーニンに深々と頭を下げて</p><p class="ql-block">許しを乞うた</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">これほどの</p><p class="ql-block">国民大衆に対する深い愛は</p><p class="ql-block">オレには望むべくもないが…</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">心の迷いを罪とするなかれ</p><p class="ql-block">その決定的瞬間にこそ</p><p class="ql-block">断固として真実であれ</p><p class="ql-block">無数の人々の仲間であれ</p><p class="ql-block">凡人われら</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">一九九一年十月五日</p><p class="ql-block"><br></p> 后记 <p class="ql-block">以上是铃木老师自1973年起,到1984年为止,对在中国的两年时间的回忆!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">在1999年的「三十二年ぶりの訪中「混乱の悲」その後」,描述了时隔三十二年重访中国,与大外领导座谈、与当年参加聚会的200多第一、二届学生见面,但没有见到胡胤,非常遗憾的离开了。</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">1999年的「娘さんたちの文かく「混乱の悲」その後」一文中,描述在学生们的帮助下,几经周折终于得到胡胤消息,铃木老师带领两个女儿,一年后再次来到中国,专程见胡胤,心愿达成!</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">全文完</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block">2004年5月5日</p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p><p class="ql-block"><br></p>